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 母親が入院している病院に駆け込んできた小春は、看護師の制止も聞かず霊安室に飛び込みました。  主治医と看護師が驚いて振り向いた後ろには、母親が着ていた寝間着の柄が見えています。  その顔には白い布が掛けられていました。 「違うよね、お母さんじゃないよね。絶対にお母さんじゃないもの」  そうつぶやくと、顔の布をそっと引きました。  そこに現れたのは紛れもなく母奈津子の顔です。  小春はその事実をまだ受け止められずに呆然と立ったままでした。 「お母さん? 本当にお母さんなの? ごめん……ごめんね。私のせいだ」  そう言うと、ゆっくり霊安室を出ていこうとする小春に看護師が声を掛けました。 「ご愁傷様です。この後、手続きが有りますので少しお時間頂戴できますでしょうか」  それには答えず、そのまま走り出した小春。 「あの、高岡さん?」    なおも呼び止めようとする看護師を「今はやめろ」と主治医が制しています。  病院を走り出てバス停に向かった小春は、奈津子が倒れた日の夜のことを思い出していました。  そう、奈津子が夜勤に向かおうとしていたあの夜です。  奈津子はいつものように小春に声をかけました。 「小春、お母さん行ってくるよ。お風呂は沸いてるからね」  発表会の芝居のことを考えていた小春は、返事もせず演技プランをノートに書いています。  返事のない小春にもう一度声をかける奈津子。 「小春? 行ってくるわね。戸締りお願いね」  小春は、別に何があるわけでもないのに苛立ったように返事をしてしまいます。 「もう、いいから!」  歩きながら小春は思いました。 「『行ってきます』には『行ってらっしゃい』じゃない。そんなことも普通に言えないなんて信じらんないよ。なんだよ『いいから』って。ダサすぎる」  自分に問いかけます。 「小春、あんたはもう一人ぼっちなんだ。天涯孤独なんだ……もう誰もいないの」  バスが来ても乗らない小春を不思議そうに見ていた運転手は首を傾げ、ドアを閉めて発車しました。 「小春、あんたなんで泣かないの? 悲しくないの? お母さんが死んじゃったんだよ!」  そんな自問に答えてくれる自分はいません。  奈津子が倒れた知らせを聞いて病院に行ったときにはあれほど泣いたのに、涙が枯れてしまったのか、今は涙がでません。 「そうか、お葬式とかしなきゃなんだよね……でも、どうやればいいんだろう。戻って先生に聞いてみるしかないよね……」  小春はとぼとぼと病院に戻っていきました。  翌日は入道雲が沸く夏空で、蝉の声が響き渡るような陽気です。  小春は奈津子の喪服を着て、たった一人で葬式を済ませ、火葬場から家まで、奈津子の骨を持って2時間かけて歩いて帰りました。  奈津子の喪服は冬ものでしたが、炎天下に一人骨壺を抱えて歩いても、不思議と汗はかきません。  そして涙も出ませんでした。
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