田中、階段を踏み外し骨折する。

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田中、階段を踏み外し骨折する。

 ゆっくりと瞼を開ける。ややくすんだ白い天井が目に入った。ぼんやりと体を起こす。ギブスを嵌められた右足は重く、必然的にそこを軸にしてベッドの上で座ることになる。だけどこれでは腰が痛い。よっ、と声を出して枕の方へ尻を引き摺る。痛み止めを飲んでいるおかげか、骨折をしているにも関わらず右足は多少の衝撃が与えられても平気だった。まあ痛みが無くても安静にはしなければならないのだが。それにしても暇だ。昼寝から目覚めてしまった今は十四時。しかしやることが無い。テレビ番組は関心を惹かれないものばかりだし、スマホでネットを閲覧するのも入院三日目にして早くも飽きた。今日は金曜日、愛しの妻である先輩は昨日と今日、出張に行っておりお見舞いには来られない。先輩と一緒だったらずっと喋っていられるのに、と寂しくなる。まあ仕事だから仕方ないし、そもそも骨折した俺が悪い。  三日前、職場で会議の準備に手間取った俺は開始時刻に遅れそうで慌てていた。エレベーターが来なくて階段を駆け下りたところ、見事に踏み外した。右足首から、ボキッ、という音が響き、骨が折れると本当にこんな音が鳴るのだなぁとやけに感心しつつすぐに痛みが襲って来て涙が滲んだ。不幸にも踊り場で動けなくなり、しかし普段階段を使う社員もおらず、このままではどうにもならんと根性で立ち上がり壁を伝いながら片足跳びで会議室まで辿り着いた。顔に脂汗をびっしょりかき、埃まみれのスーツで現れた俺を見た上司はすぐに会議室の外へ連れ出した。事情を話しズボンと靴下を捲ると右足首は倍ほどに膨れ上がっていた。上司は俺をおぶりエレベーターで一階まで降りた。そして警備員さんにタクシーを呼ぶよう頼み、病院へ行ってこいと三万円を渡された。荷物は同僚に持って来させてくれた。会議に出られなくてすみませんと半泣きで謝ると、武勇伝だなと笑い飛ばしてくれた。俺は一生この人についていく、と誓った。まあ今回のやらかしで飛ばされるかも知れないが。  そして一番近い整形外科へ電話を掛け、事情を説明しタクシーで送って貰った。レントゲンを撮られた後、総合病院へ行くよう指示された。再びタクシーで送られて、一時間程脂汗を垂らしながら診察の順番待ちをし、診察室へ通された俺に告げられたのは。 「明日、手術をします」  衝撃の宣言だった。明日、とバカみたいに繰り返すとレントゲンの写真を見せられた。くるぶしの骨が真っ二つに割れていた。このままでは将来歩けなくなる、ボルトを入れて一年間固定しなければならない、と言われ、丁度明日は手術室と先生が空いているからすぐにやると一方的に通知された。わかりましたと答える以外に道は無く、ちなみに今日は帰れますかと間の抜けた質問をすると駄目ですと一刀両断された。問診を終えた二十分後には病室へ通された。ここしか空いていない、と入れられたのは一般病棟の三階にある四人部屋で、お邪魔しますと同室の人達に頭を下げてから今後一週間を過ごす窓際のベッドへ入居した。正面は愛想もガタイもいいお兄さんで腕を三角巾で吊っていた。アメフト部らしいが、自転車で転んで骨折したとのことだった。隣のベッドは大人しそうな高校生だった。学校の掃除中、濡れた床で足を滑らせ机にぶつかり肋骨を折ったそうだった。そして左斜めのベッドには、笑顔の眩しい初老の男性が座っていた。草野球でベースを駆け抜けた際に重度の捻挫をしたと話してくれた。なかなか居心地のいいメンバーで安心した。  会話が落ち着いてから先輩へメッセージを送った。骨折して入院し、明日手術だと伝えると即刻電話が掛かって来た。談話スペースで無いと通話は出来ないと教えられ、松葉杖をつきそこへ向かった。慣れない移動に手間取る間も引っ切り無しに着信しており割と焦った。到着して掛け直すと、何事だ、と叫び声が受話器から響いた。説明して病院の名前と面会時間は十九時までだと伝えると、間に合うように行くと即答した。通話を終え、そういや会社へ連絡していない、と慌てて電話を掛けた。事情を聞いた上司は、ゆっくり休め、また階段から落ちられても困る、と言ってくれた。手術後に連絡をくれれば構わないと告げられ、本当にいい人だと思いつつ、俺がいなくても仕事は回るのだなと少し悲しくなった。  十八時過ぎ、我が妻たる先輩がスーツ姿で病室へ飛び込んで来た。アメフトさんと草野球さんが驚く前で、心配したぞと手を握られた。高校生君は、わぁ、と声を漏らした。そして先輩に抱き着かれるかと思ったけど、四人部屋だから理性が働いたらしく来なかった。個室じゃないのがこの時だけは惜しまれた。改めて事情を説明すると、明日と明後日は出張で病院には来られない、と半泣きで謝られた。しょうがないです、タイミング悪く骨折した俺が悪い、と笑顔で応じたのだがごめんねと繰り返されてとても困った。そして先輩は、来る途中に神社で買った、と御守を渡してくれた。健康成就と書かれていて、既に不健康なんだがなと苦笑いが浮かんだ。時間一杯まで先輩はいてくれた。帰る彼女を病院の出口まで見送った。エレベーターで二人きりになった際、心配したぞ、と抱き締めてくれた。監視カメラがあるんだが、と思いつつ先輩のおかっぱ頭に顔を寄せた。いつも通り、コンディショナーのいい匂いがした。  病院の自動扉を潜った先輩は何度も名残惜しそうに振り返った。俺は手を振り笑顔を見せた。姿が見えなくなった直後、痛くない? とスマホにメッセージが飛んで来た。松葉杖を持っているから返信は打てんがな、と取り敢えず病室に引き返した。ベッドに辿り着くと、えらい綺麗な奥さんだね、と草野球さんに冷やかされた。アメフトさんと高校生君もからかうような笑顔を浮かべていた。照れながら雑談に応じている内に返信をすっかり忘れた。夕飯を終え、横になった時にようやく思い出して返事をした。忘れていただろ、と言い当てられて首を竦めた。  翌日の午前中は手術、午後は麻酔の影響でほとんど覚えていない。意識がはっきりしたのは十九時過ぎ。水だけ飲んでぼーっとしていた。同室の三人は、おはよう、とだけ声を掛けてくれた。そして消灯時間の二十一時を迎えた。困ったことに、その頃から大分意識がはっきりしていた。昼に寝まくったおかげで眠れなかった。だがこの時代、暇はスマホでいくらでも潰せるぜ、とアプリで遊んだりネットを徘徊した。夜の病院は少し怖かったけど何も起きず、結局朝の四時まで起きていた。流石に眠らなければと目を瞑ってみたものの、寝たんだか起きていたんだかわからないままぼんやりと時間が過ぎた。朝七時に検温と血圧測定のために起こされて、朝ご飯を食べたら急に眠くなった。やることも無いのでそのまま眠り、起きて十四時の今に至る、と。
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