婚約者

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 突然、スマホの着信音が鳴り、無音の室内を切り裂いた。 「はい」  西園寺が電話に出た。  相槌を打ちながら久世と晶を見ている。 「……わかった」  そう言って通話を切ると立ち上がり、シャツを直しながら言う。 「親父が来る」  久世は驚いた。 「西園寺先生が……なぜ」  晶は聞いた瞬間に、それまで置物のように微動だにしていなかった身体を瞬時に動かして、パウダールームへと消えた。 「なぜってことはないだろ。顔見知りばかりだ。……ここのラウンジにいたらしい」 「蓼科(たてしな)では……?」 「お前は本当に何も知らないな。それで有能だとは、親父も耄碌(もうろく)したのか?」  呆然としたままの久世を見て、西園寺は笑い声をあげた。 「鏡を見ろ。いくらなんでもそんな姿で親父の前には出るな」  久世はハッとして、部屋にある姿見に近づいた。  生田のことで頭がいっぱいで、ここ数日身だしなみに気を配っていなかった。ちぐはぐなシャツとパンツを着ているうえに、髪は起きたままでボサボサだ。涙で腫らした目がそれに追い打ちをかけて酷い。  今さらどうすることもできないが、とりあえず皺を伸ばして服を着直して、髪を精一杯整えた。シャンパンクーラーの中から氷を取り出して、ナフキンに包んで瞼に当てる。
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