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第1話 死んだ魚の様な
「他人にとっては笑える話だろうが、俺にとっては死活問題だ」
2028年の12月のある雨の夜だった。
名古屋のバー「カリブ」に朝日奈真示は入ってくる。
長身で短髪。20歳の筋肉質のがっしりとした身体は、運動部の大学生と思わせる雰囲気を醸し出していた。
「カリブ」は真示が普段通学している名古屋大学からは少し離れた距離にあり、彼が落ち着いて飲めるお気に入りのバーである。絶品のカリブ海料理がメインで、モヒートなどのカクテルも充実しており、真示としては隠れ家的な貴重なお店である。
しかし今日の真示の表情は、普段の知的で落ち着いた彼からは想像も出来ないぐらいに、死んだ魚の様な表情だった。
「真示君、大丈夫? 来てくれてありがたいんだけど、かなり顔色が良くないように感じるが……」
「心配ないですよ。最近寒いから少し冷えただけです。マスター、ビールもらえますか?」
「分かった。ビールだね」
注文を受けたので、ビールを差し出すマスター。真示はつまみも食べずに、ビールを飲んでいく。
バーなので明るい訳ではないが、真示の目からは涙がにじんでいるのが、マスターは分かった。
つまみも注文せず、グラスでビールを3杯注文し、それを何のためらいもなく、味わうのでもなく飲む真示。
真示はため息をつき、死んだ魚のような目で「カリブ」の店内の様子を見る。
今日は平日の夜なので客はあまり多くない。
なじみの常連のお客さん3人と、見た事はない初老の70歳くらいの老人。それからカップルと思える若い男女だった。
他人の芝生は青く見えてしまうもの。
(お気楽な連中だ)と心の中で軽く毒づきながら、ビール4杯目を注文しようとしたところ、手が滑って真示はグラスを落としてしまった。
グラスの割れる音が響く。店員さんが迅速に対応して掃除してくれた。
「すいません。弁償します」
「大丈夫ですよ。真示さんの方こそケガは無いですか?」マスターは心配してくれた。
(これじゃ申し訳ないな)と真示は思った。
「ケガはしてないんで大丈夫です。マスター、モヒートと、サルサチキンと、タコのから揚げくれますか?」
「良いですよ」マスターの気持ちの良い返答が救いだった。
(酒ばかり飲んでいると悪酔いする)
少し落ち着いて店内を見渡していると、男女のカップルの様子が目に入った。
男は30歳くらいの普通のビジネスマン風、女は25歳くらいで後輩といった感じか。
そのカップルだが、女性がトイレのため席を外した隙に、男性が素早くポケットから錠剤を出し、それを女性のグラスに入れるのを真示は目撃した。
(手慣れてんな……デートドラッグかよ。全く人が落ち込んでいる時ぐらい大人しくしていりゃ良いものを……)
そう思いつつ、酔いながらも真示は立ち上がる。
女性が戻って席についたタイミングで、真示はそのテーブルに近づき、男に対して口を開いた。
「なあアンタ、その女の人がトイレに行っている隙に、女性のグラスに、薬を入れていたのが見えたんだが」
「な、何を言っているんだ? そもそも君は何だ? 何の証拠があるというんだ?」
男はしどろもどろになっていた。
店全体がざわっとして、皆が注目している。
「証拠? 潔白を証明したければ俺の目をじっと見て、何もやっていませんと誓えばいい」
真示はそう言って、ビジネスマン風の男の目を凝視した。ビジネスマン風の男も反射的に真示の目を見てしまう。ビジネスマン風の男は気づいただろう。真示の瞳孔が青く光っているという事に。
そしてそれに気付いた時、ビジネスマン風の男は身体が硬直して、動けなくなっていた。
「さて、何をやるつもりだったかここではっきりと言ってもらおうか。それからそれを話したら、この女性のことと、この店のことと、俺のことも全部忘れろ」
酔ってはいるものの、真示は明瞭に命令をした。
ビジネスマン風の男は震えながら、何とか口を抑えようと手でふさぐが、それでも口が勝手に動いて開いた。
「俺はこの女に即効性のデートドラッグを飲ませて眠らせて! ホテルで楽しんで録画して! あとでその画像を使ってこの女を都合よく奴隷にする予定だったんだ! 邪魔しやがってクソガキが!」
大変お上品かつ大声の自白がバー「カリブ」の中に響いた。
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