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第2話 自分の事は救えない
目の前でおそらく会社の先輩からの、大声の自白演説を直接聞いた女性は青ざめて、震えながら立ち上がって距離をとった。
女性客を守る様に、マスターがカウンターから出て、男性客、真示の前に立つ。
「強姦や脅迫をこれから行おうとする方は、当店のお客様として適切ではありませんね。穏便にお金を払ってお帰り下さい。自主的に帰らない場合は110番になりますが」
マスターの口調は丁寧だったが、目つきは鋭く、明瞭に警告を伝えた。
男は財布から5千円札をテーブルの上に置くと、走って店から出ていった。
後には、震えている後輩と思える女性客が残されてた。
放置しておくわけにもいかないので、真示は「あいつが隠れている可能性もありますから、俺が駅の改札まで送りますよ」と話す。
まだ震え治まらない女性だが、真示を信用してくれたらしく、納得してくれた。
歩きながら真示は、男に対して警戒はしていたが、特に女性に対して話すことは無かった。
真示としては警戒に集中したかったし、詳細なことを聞く気も、エネルギーも無いのだった。
女性としても、とても話す気分ではなかったらしい。
そんな風に歩きながら、無事に地下鉄の駅改札まで到着した。
真示はふと思い出して、名刺を取り出した。
名刺には女子保護をしている施設の名前が書いてあった。
「俺、ここのボランティアをやってるんです。本来は身寄りのない女子などの保護などをしているんですが、セクハラ問題やストーカーや、性犯罪に強い弁護士もいるので、何かあったら連絡ください」
「……ありがとうございます……」女性は大事そうに名刺入れに名刺をしまった。
真示はその時に気付いたが、女性は目が涙でにじんでいた。
改札まで送り、見えなくなるまで女性を見送ったあと、真示は「カリブ」のマスターに駅まで女性を送り届けたことを伝え、自分も家へ帰る事にした。
人助けをしたにも関わらず、真示の心は晴れなかった。
今回割ってしまったグラスのこともあるので、今度は誰か連れていくか……と真示は考える。
一方、バー「カリブ」ではマスターと客の初老の老人が、仲良く話していた。
初老の老人は一見地味に見えるが、高価なジャケットとベストを着こなしている。
年齢は70代くらいに見えるが、背筋は正しく、ロマンスグレーの髪と、きれいにひげを剃ってある。おしゃれで精悍な印象の老紳士だった。
「しかしマスター、痛快でしたな。あの若者の立ち振る舞い。今時、なかなかに正義感のある若者がいるもんですな」と老紳士は上機嫌だった。
他の常連客の様子を見ても、すっきりした様な様子で喜んでいた。
「そうですね~。うちの店の常連さんなんですけどね。名古屋大学法学部の気持ちの良い学生さんなんですよ。たしか朝日奈君と言う子でしてね。今日は帰ってしまいましたけど、今度葉月さんに紹介しますよ」とマスターは答えた。
「いや実は彼の事は知人からは聞いてはいてね。しかしなるほどねえ。噂通りだわ」
「噂?」
「いや、こちらの話じゃよ。しかし興味深い夜でしたな」
「全くです。変な客が増えると店の評判も落ちますし。朝日奈君のおかげで助かりました」
「全くじゃのう……しかし面白かったわ」
一方で雨に濡れて帰る朝日奈真示。
傘もささずに帰る彼は自嘲気味につぶやく。
「人の事は守れても。自分の事は救えないもんだな」
真示は数日前の事を思い出していた。
場所は変わり、ここは真示の彼女の桐島美穂の部屋である。
美穂は20歳で真示と同じ名古屋大学に通う、文学部の学生である。
ショートカットの髪型で、身長は平均的な身長であり、整った顔立ちをしている。魅力的と言える外見の持ち主だ。
美穂は、数日前の事を思い出していた。
その思い出すことは楽しいものではないらしく、美穂は自宅の自室のベッドの上で部屋を暗くしたまま、寝る事も出来ずに鬱々としていた。
眠剤を飲んでも、眠気が来てくれない。
数日前の事から、きちんと眠れないのに、正確に薬が作用してくれないのだ。
それは薬に問題があるのではなく、美穂自身の心の中にある悩みが原因なのは、美穂自身にも明らかだった。
眠気が来ないのでいい加減諦め、電灯を付けて机の上のノートパソコンを付ける。
小説投稿のサイトを開くと、早速反応があり、ファンが受賞を喜んでくれている事が分かった。
いつもだったら、嬉しい瞬間だっただろう。
しかし、美穂は笑顔が出来なかった。
ファンから寄せられる評価と、今の自分がぶつかっている現実。
希望を書いた物語と、希望の見えない現実の自分。
ため息をつきながら、美穂は自嘲の笑みを浮かべた。
「……私、結局なにも克服出来てない。真示に合わす顔もないなあ」
涙が落ちる。美穂にとってはもう笑うしかなかった。
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