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 きっかけは長野県北部に初雪が降って間もない秋の終わりのことだった。  その日、東城彬が働く鄙びた温泉宿に旧知の桝井智朗(ますいともろう)が訪ねて来た。東城は仕事終わりに桝井の部屋に呼ばれ、桝井の身内で岸本淳也(きしもとじゅんや)と名乗る若い男が作ったハイボールに遠慮なく口をつけた。  浴衣姿の二人は食事を終えたばかりらしく、テーブルの上には食べ残したデザートの盛り合わせと宿のメニューにはないザ・マッカラン十八年のボトル、アイスペールと瓶入り炭酸水が置かれていた。従業員が客に作らせた酒を飲むなど普通では考えられないことだが、東城は抵抗なくこの特異な状況を受け入れていた。  俯き加減の東城は辺りを警戒するように視線を泳がせた。東城の左右の目は僅かにバランスが崩れており、左の瞼だけが妙に腫れぼったい。その為、黙っていても皮肉屋のような印象を与えた。  膝の上で軽く握った両の拳はどちらも岩のように大きく、傷だらけで所々、黒ずんでいた。この拳にしても左目にしても、どちらも先天性のものなどではない。東城の人生を表すが如く、長く続けた粗野で野蛮な生活の名残である。  岸本淳也は時々、東城の横顔を盗み見て露骨に顔を歪めた。  部屋の主である桝井は広縁のソファーに腰掛け、東城の存在を無視するように、外の景色を眺めながら金色の加熱式タバコ――アイコスを吹かしていた。桝井もその筋の人間らしい野蛮さといかがわしさを持ち合わせてはいるものの、その顔や拳は東城と比べるまでもなく小奇麗だった。  宿の前には石畳の細い路地がおよそ二百メートルに渡って続き、遊技場や土産物屋、甘味処などに交じって昔ながらの外湯がいくつかあった。宿泊客は宿から渡される木鍵を片手に浴衣姿で草履を引っ掛け、思い思いに外湯を巡る。それがこの鄙びた温泉地の楽しみ方だった。  東城はハイボールを口に運びながら時折、横目で部屋の様子を確認した。この部屋は広々として明るい客間と、落ち着いた雰囲気の寝室に分かれた最も値の張る貴賓室である。同等の部屋は他に二つあり、すべて最上階の六階に位置している。  この宿では貴賓室以外、原則、部屋食が認められていない。一般客が専用の食事処で晩餐を楽しんでいる間に、東城のような下働きが合鍵で客室に入って寝床を拵えるのが慣わしだった。  だから東城自身、他の部屋には頻繁に入っているものの、貴賓室に足を踏み入れるのは初めてであり、思わず好奇心に駆られて部屋の中を窺った。ここで使用されている家具や調度品、壁の水墨画に至るまでどれも丁寧に手入れされており、他とは雲泥の差があった。  寝室との境にある障子から間接照明の淡い灯りが漏れ、バルコニーには総檜造りの専用露天風呂まで備わっている。これほど贅を尽くした貴賓室の世話が自分に任されないのはもっともな話だと東城は自嘲しつつ納得した。  タバコを吸い終えた桝井がおもむろにが立ち上がり、遠慮なく窓を開けた。その途端、冷え切った外気が容赦なく部屋の温度を攪拌した。  桝井は身を乗り出して通りを覗き込み、下品に喉を鳴らして唾を垂らした。その唾が下の歩道に落ちたのか、それとも手前の縁側を汚しただけか、東城の座っている位置からは判断が付かなかった。  次に桝井は身体を震わせて勢いよく窓を閉めると、ようやく振り返って東城彬を見た。そこで鼻を鳴らして微かに笑い、ただでさえ細い目をさらに細めた。 「随分、様になってきたじゃないか、兄弟――」  桝井にそう言われて、東城は今気付いたとばかりに自分の格好を見下ろした。縫い目のいたる箇所で糸屑がほつれたままの薄青色の作務衣は本来、濃い藍色だった。しかし何度も繰り返し、ろくに柔軟剤も使わずに洗濯したお陰ですっかり色褪せている。  桝井はその顔に魂胆の読めない微笑を張り付けたまま、悠然と歩いて客間に戻って来ると、右手を岸本の肩に優しく置きながらゆっくり腰を下ろした。  東城は上目使いにさりげなく、胡坐を組んで座る桝井を盗み見た。一年前に東京で会った時より少し太ったようだ。腰回りにも肉が付き、顎の肉も僅かにだぶついて見える。それでも桝井はもともと針金のように痩せ細った体躯だから、これでも成人男性の平均体重よりはずっと軽いだろう。その点、東城の方が中年太り度合は深刻だった。  桝井智朗の年齢は四十歳で東城よりも二歳下だ。二人の付き合いは東日本最大の暴力団『秋葉會(あきばかい)』の二次団体で、錦糸町に縄張り(シマ)を持つ『錦政会(きんせいかい)』の組員として出会ってから彼是二十年近くになる。  かつては東城が兄貴分で、桝井はその忠実な舎弟だったが、今は桝井が組織の長であり、東城はどこにも属さない野良犬に成り下がっていた。  桝井はどうにも照れ臭いのか、東城の目を見ることなく言った。 「さっき支配人から礼を言われたよ。真面目に一生懸命働いてくれてるって――。お陰で俺も鼻が高いわ」  東城は答えずに僅かに目を伏せた。支配人――。それは桝井の遠縁にあたる六十代の萎びた男のことだ。  今から一年と少し前、東城は桝井の世話で、この宿の下働きの仕事にありついた。遠縁だと言う割に支配人は桝井に対して平身低頭だったし、雇用された東城自身もずっと腫れ物のような扱いを受けているが、それでもどうにか仕事は続いている。  桝井は岸本が新たに作ったマッカランのハイボールを一口飲むと、その顔いっぱいに不自然な笑みを浮かべた。 「何か困ったことがあったらさ、いつでも、なんでも、遠慮なく言ってくれよ。なあ、兄弟――」  東城は礼を言うように小さく頷いた。目の前にある桝井の笑顔は大根役者のように嘘臭い。桝井は自分の言葉に自分自身で頷きながら、傍にあった鰐革のブリーフケースを持ち上げた。 「ところで、今日は兄弟にちょっとした頼みがあって来たんだわ」  東城は黙って桝井の手元を見つめた。そのフレーズは過去に何度も聞いている。何度も聞いてはいるが、本当にで済んだためしはただの一度もない。  桝井はブリーフケースの中から数センチ四方の透明のパケ袋を取り出すと、ぞんざいに東城の目の前に放った。そのパケの中で氷砂糖のような結晶が躍る。わざわざ聞かずともそれが何かは分かる。美しき雪の欠片、アイス、エス、スピード、白、シャブ――、つまり覚醒剤だ。 「そいつはウチの者がタイで仕入れてきたネタだ」  桝井はやや神経質に感じられる、細く尖った声で言った。  隣の岸本はそれを聞いても特に動じることなく、むしろ涼しい顔で座っている。今風の優男――。まだ二十代だろう。歌舞伎の女形のように顎が細く、垣間見える爪も綺麗に手入れされている。 「とんでもない上物だよ」――桝井はそう言って再び東城の顔色を窺う。  そこで東城がようやく重い口を開いた。 「これをどうして俺に?」 「そいつは証拠品なんだ。そのネタを扱っていた人間が行方不明でね。できたら兄弟にその男を探し出してほしいんだよ」  東城の瞳が僅かに揺らいだ。 「だから、なぜ俺に?」  その瞬間、桝井の表情にほんの僅かな苛立ちが見えたが、それもすぐに消えた。 「兄弟――、実際、俺は困ってんのよ。その男は本家の幹部だったんだが、今の五代目体制になって平の直参(じきさん)に格下げになっちまった上、東南アジア戦略統括だとかって、聞いたこともない役職を押し付けられてタイに飛ばされちまったんだ。向こうでシャブのルートでも開拓して来いってさ。……組の功労者に対して随分、ひどい仕打ちだったけどな、それでも偉いもんで、すぐにミャンマー産のヘロインを送って来たわ。……だけどよ、兄弟。今時、ヘロインはな――。それで別の商品を注文したら、今度はその上物が送られてきたって訳だ。だからもっと寄越せと指示したところで世の中一気にコロナ騒ぎだろう。品物はおろか連絡も途絶えちまって、向こうと行き来も出来やしない。すべての時計が止まったまんま結局、奴は飛んじまった――。それが今から三年前の話で、今じゃ奴はとっくに破門なんだが、伊原(いはら)のオヤジはまだ腸が煮えくり返っているらしくてね、きっちりケジメを付けろとお達しだ。つまり、そのお鉢が俺に回って来たって訳――」  東城は長い付き合いで慣れているとは言え、桝井の勿体ぶった話にうんざりしていた。質問はただ一言、なぜ俺に――、それだけだ。しかしそんな態度はおくびにも出さず黙って頷いた。  桝井は再びブリーフケースに手を入れて、二枚の写真を取り出した。 「名前は鷺村彰吾(さぎむらしょうご)だ。今年で四十九歳になる。四代目体制じゃ執行部で、運営委員長と神奈川ブロック統括長を兼任していたし、次期理事長の最右翼だとも言われていた。もちろんその先には会長候補の芽もあった筈だ。しかし五代目争いで先代の意を受けて、初代の孫にあたる秋葉家の御曹司を担いじまった。それが裏目に出て、今じゃ賞金首のお尋ね者だ」  東城は目の前に並べられた二枚の写真をじっと眺めた。一枚は黒の袴姿で四代目秋葉會・溝呂木頌栄(みぞろぎしょうえい)会長と並んで写り、もう一枚はどこかのパーティー会場でダークシルバ―のスリーピースを着て微笑を浮かべた端正な横顔だった。どちらも眼光鋭く、細面で口髭は丁寧にカットされ、揉み上げから顎まで繋がる薄い髭もきちんと整えられている。その二枚の写真からは鷺村彰吾が持つ雄としての精力と胆力が如実に伝わってきた。  桝井が首を伸ばして、東城の手元の写真を覗き込みながら訊いた。 「兄弟、その顔と鷺村と言う名前に覚えはあるかい? 奴は錦政会と親戚筋の醍醐一家(だいごいっか)の出だから、もしかしたらどこかで顔を合わせているかもしれない」  東城は首を傾げて思案した。醍醐一家なら何人か知っているが、写真の男にはまるで見覚えがない。桝井がさらに身を乗り出した。 「なあ、兄弟、ここの支配人には俺から話しておくから、準備が出来次第、タイに飛んでくれないか」 「だから、どうして俺なんだ?」  東城は馬鹿のひとつ覚えのように同じ質問を繰り返した。桝井は今度こそ露骨に溜息をついたが、また先ほどと同じように下手糞な作り笑いを浮かべた。 「この世界にゲソを付けて一番世話になったのは他ならぬ東城の兄弟だ。ヤクザのイロハも教わったし、(おとこ)の生き様も見せて貰った。本来なら錦政会三代目も、本家の執行職も、俺じゃなくて兄弟の方が相応しい。だから破門されたままの、今の状態が我慢ならねえんだ。兄弟にはもういっぺん返り咲いて欲しいんだよ。その為に、ここで手柄を上げてくれないか」  そんなこと誰も頼んじゃいない――、東城はそう胸の内で独り言ちた。今さらヤクザになど戻りたくはない。しかし桝井には、堅気になってからずっと世話になっている。桝井の助けがなければ、東城のような何ひとつ取柄のないムショ上がりの元ヤクザは野垂れ死ぬのが関の山だ。だからとうの昔に元兄貴分としての面子は捨てていた。今はただ桝井の機嫌を損ねたくはない。 「できることなら力になりたい。だが、勝手分からぬ外国でコソコソ逃げ回っている筋モノを見つけ出すなんて芸当、とてもじゃないが俺にはできそうもない」 「そりゃ、そうだ。ただ闇雲に探せって話じゃない。もちろん手掛かりはあるんだよ」 「手掛かり?」 「ああ、そうだ、ちゃんとした手掛かりだ。……いいかい、ウチの元若い衆で、KJと呼ばれている日本とタイのがいるんだ。そいつは足を洗って、今は向こうで働いてんだが、その情報によると最近、麻薬絡みの大物がパタヤに現れたって話だ。その男は通称〝ショーグン〟と呼ばれていて、どうやら日本人らしい。俺はその正体が鷺村彰吾じゃないかと踏んでいるんだ。だってよ、兄弟――、だぜ。外国人なら聞き間違えてもおかしくはない。そう思わないか?」  東城は同意も否定もせず、ただ訊き返した。 「つまりこういうことか――、俺がパタヤに行って、そのショーグンとやらを探し出して接触し、鷺村本人かどうか確認する」 「単純に言うとそうだ」 「それで、そのあとは?」  桝井はすぐに答えず正面から東城を見据えた。この世界のやり方、ケジメの付け方、ガキの使いじゃない――、そんな無言のメッセージが伝わってきた。 「そうだな、ショーグンの正体が鷺村だと確信できたらひとまず連絡をくれ。俺もすぐにタイに飛ぶ。それでも、もし俺たちの到着が待ちきれなければ、その時の判断は兄弟に任せるよ」  東城は西部劇映画の手配書を思い出していた。ウォンテッド・デッド・オア・アライブ――。お尋ね者、生死を問わず。つまり荒っぽい仕事になると言うことだ。だから桝井はこの話を持ってきたのだ。それは東城自身、身に染みて良く分かっていた。その才覚が己に残された最後の砦であり、桝井と自分を繋ぐ唯一の絆だと言うことも――。  東城は残ったハイボールを飲み干すとこの会合で初めて桝井の目を見て頷いた。二度しっかりと、そしてはっきりと。  東城が部屋を出て行った後、岸本淳也は空いたグラスに手を伸ばしてハイボールのお代わりを作った。  桝井は本来、あまりウイスキーが好きではない。けれど人前では敢えて、マッカランやバランタインなど高級ウイスキーの年代物を飲んだ。それも飲み方は常に炭酸割りだった。たまに出くわす桝井より目上の人間は、ソーダで割ったらウイスキーの良さが死んじまう、邪道だと言って蔑んだが、それでも頑なにハイボールにこだわった。  そのハイボールを作る時、岸本は周りの視線が手元に集まらぬよう細心の注意を払った。できるだけ薄めに作る為だ。それが桝井と出会って最初に受けた指令でもあった。  岸本淳也自身はヤクザではない。実質、桝井がオーナーを務めるフロント企業の役員、つまり企業舎弟だ。同社は風俗求人サイトを運営し、全国の風俗店から出稿料や広告費をせしめた。また錦糸町を始め、札幌や福岡、仙台などで風俗嬢向けの撮影スタジオや名刺作成を請け負う店舗を運営しており、そこからも相当な利益を得ていた。  これこそが桝井の資金源だった。この財力を以てして今から二年前、三十八歳の若さで錦政会の三代目を継げた訳だし、今年になって本家直参にも昇格できたのだ。即ち、将来の執行部入りが現実味を帯びてきた今、上からの指示通り、鷺村彰吾を粛正すると同時に、奴の持つ麻薬利権を横取りしてしまえば一石二鳥だと桝井は考えていた。  岸本はほとんど炭酸水に近いハイボールのグラスの縁を丁寧に拭ってから桝井に差し出した。二人の距離は先ほどより心持ち近い。 「あのパケ、預けちゃって大丈夫だったんですか」  東城が部屋を出ていく際、桝井は東城にパケ袋を手渡した。証拠品だから大切に保管してくれ――、そう付け加えて。 「ああ、東城は筋金入りのポン中だから、あっという間に食っちまうだろうよ」 「だったら尚更、仕事の前にボケてたら使い物にならないでしょう」 「いいか、淳也。あれは餌だ。言わば餌付けだ」 「どういうこと?」 「あのな、東城は若い頃に馬力と勢いだけでヤクザになった狂犬みたいな男だ。その癖、博打はダメ、掛け合いもダメ、シノギもダメで、ヤクザとしてはまるで芽が出なかった。その挙句、破門だろう。それをお前、この俺が長い間、時間をかけて、辛抱強く躾けて来たんじゃねえか。……大丈夫、可愛い番犬ちゃんはきっと喜んでタイに行ってくれるよ」  桝井はそこで薄いハイボールを口いっぱいに含むと、岸本の肩を抱き寄せて唇を近付けた。  岸本もまた抵抗することなく、零れてきたその酒を口に含んだ。
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