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プロローグ
南シナ海シャム湾――。
おそらく午前十一時から十二時の間――。
死の間際、脳裏でこだましたのは狂った獣のような笑い声だった。
揺れる太陽の下、後悔する暇も懺悔する機会も与えられず、ただ非情で残酷な嘲笑が重なった。
頭上から降り注ぐ灼熱。不意に訪れたこめかみへの冷たいくちづけ。
それでも無理に笑おうとした。好かれようとした。助かろうとした。
しかしそこに慈悲などなく、爆音が鼓膜を破壊し、すべてをかき消した。
◇
チョンブリ兼パタヤ郊外、湖畔のヴィラ、離れ――。
おそらく午後四時から六時の間――。
東城彬の視界の隅で灰褐色のヤモリがゆっくりと動いた。
壁に張り付いて目をくっと見開き、赤い舌を覗かせては好物の白蟻を探している。
そのヤモリの舌と使い古しの注射器の先端が混同する。針は静脈から血液を吸い出し、充分に勿体ぶってから透明の雫を押し返した。
その直後、頭の天辺から足の爪先までキンと凍ったように冷たくなり、東城は一本の棒切れになる。
すると、それまで重石のように覆い被さっていた不安は消え去り、実体のない多幸感だけが全身を支配した。
東城はベッドに仰向けになって瞼を閉じた。
脳裏をさまよう濃密で曖昧な記憶。九尾の狐の嘲笑。百年生きて妖女に化けた魔物。
九本の尾が放射状に伸びて東城に襲い掛かる。二本が両足を拘束し、二本が腕の自由を奪い、二本が左右から胴体に巻き付き、二本が頭と首を締め上げ、残る一本が東城の陰茎を探り出して握りしめ、遠慮なく、淫らな動きを加速させる。
東城は痛いほど勃起し、恥ずかしげもなく声を漏らし、歓喜の涙を流しながら逝き果てた。
だらしなく開いたままの口から饐えた匂いのする涎が零れていく。
東城彬は無様に気を失っていた。
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