第01話 特別な操言士と祈聖石(1.操言院)

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第01話 特別な操言士と祈聖石(1.操言院)

紀更(きさら)ちゃん、聞いた? まぁ~た第一王子がお城を脱走してるらしいのよ」  鶯色のロングスカートに白い前掛け。頭には薔薇柄のスカーフを巻き、手のひらで首元をあおいでいるふくよかな体型のメアリーは、カエルが鳴いているような濁声で紀更に話しかけた。 「どこで遊んでるんだか、王族は気楽でいいわよねぇ~」 「第一王子は遊んでるんですか」  メアリーから注文されたオフホワイトのコットン生地を手際よく裁断しながら、紀更は気がない声で相槌を打つ。 「遊んでるに決まってるわよ! 第一王子は弟君の第二王子と違って昔っからそう! ほぉ~んと、おバカなんだから。まぁ~ったく困っちゃうわよねぇ~」 「そうですね」 「でもあれよねぇ~。よその国みたいに闇の神様を信仰してるとか、そういう危ないことをしないだけましかしらねぇ~。紀更ちゃんは知ってる? フォスニアって国は、王家そのものが闇の神様を崇めてるらしいのよぉ~。もう、気味悪いったら」 「そうですね、怖いですね」  紀更は愛想笑いを浮かべた。  洗濯屋「モニス」の店員であるメアリーは悪い人ではないのだが、迂闊に彼女の話に興味を示してしまうとなかなか会話を終わらせてくれない。このマルーデッカ地区に住んでいる住人なら誰もが知っていることだ。話題がどんどんそれて、もしも家族やご近所の愚痴が始まったならいよいよメアリーの口は止まらなくなり、切り上げるタイミングを完全に失ってしまう。彼女のおしゃべりが本格的にならないうちに、退店へと自然に誘導しなければ。 「はい、終わりましたよ」  紀更は裁断を終えた生地を手早く畳むと、メアリーに会計をうながした。 「ありがとうね。そういえば、こんな風に店の手伝いをしているけれど、紀更ちゃんはもう操言士(そうげんし)になったんだったかしら? 確か、去年から操言院(そうげんいん)に通い出したのよね?」 「ええ、そうです」 「変よねぇ、普通はもっと小さい頃から行くのにねぇ~」  メアリーは紀更に代金を渡しながら悪意なく尋ね、呟く。 「私はまだ見習い操言士です」  メアリーから代金を受け取り、畳んだ生地を手渡しながら紀更は消え入りそうな声で答えた。 「今は少しお休みをいただいていて……数日したら、また操言院に戻ります」 「はぁ~。そうなのぉ~。たいへんねぇ~。でも頑張って! じゃあね」  メアリーは励ましのつもりで紀更の肩をたたくが、紀更は精一杯作った愛想笑いしか返せなかった。 「ありがとうございました。またどうぞ」  接客の定型句を口にし、店のドアを開けて去っていくメアリーの背中を見送る。 「はぁ~」  そして客のいなくなった店内で紀更は大きなため息をついた。瑞々しい緑色のその瞳は、どんよりと重たい気持ちで濁っているように見える。 (戻りたくないなあ)  この大陸で最も大きな国、オリジーア。その首都である王都ベラックスディーオ。統治者のオリジーア王が住まうこの王都で、紀更は父の匠と母の沙織の長女として生まれた。  オリジーアの子供たちは、基本的には各家庭の仕事を手伝いながら育つもので、紀更もこれまでの十六年間、両親が営むこの呉服屋「つむぎ」の手伝いをすることが生活の一部だった。  しかし幼い頃から両親の仕事の手伝いをする一方で、大半の子供たちは国が運営する「光学院(こうがくいん)」という教育施設に通える範囲で通い、そこで読み書きや歴史などを学び、大人になっていく。紀更はどちらかというと光学院に通う時間が多い方だったが、自宅も兼ねているこの店で店番をしたり、商品の在庫を数えたり、山のようにある布や糸、服飾雑貨を見上げて育ってきた。今のメアリー相手のように、生地を必要分だけ裁断して売る程度の仕事なら一人で難なくこなせるほどには、店員として成長できたと思う。 (このままなんとなく、こうやって父さんと母さんを手伝っていく気がしてたのに)  呉服屋つむぎの店員として、徒然と消化する日常。馴染みの客から安くなっている精肉店を教えてもらったり、どこぞの地区で喧嘩があったらしいと噂話をかじったり。隣の地区の誰かが結婚して王都から引っ越したと聞いたり、歳の近い友人たちと王都内の少し外れの空き地でピクニックをしてみたり。  代わり映えのない日々が退屈に思うこともあったが、特に大きな変化のない平穏なこの生活には満足していた。この生活がこの先もこうしてゆっくりと続いていくのだと、ぼんやりと思っていた。 (操言士、か)  店番用の丸椅子に座り、紀更は客のいない店内の床に視線を落とした。手持ち無沙汰を紛らわすために、左右の肩にふれている短い三つ編みをほどき、なんとなくまた、同じ三つ編みにしてみる。根元の髪の毛はゆるませ、毛先だけを軽く編むおさげは、ここ二、三年変わらない、紀更のトレードマークだ。  オリジーアは、この大陸にある四つの国の中で最も古い。領土の広さ、人口、産業の発達具合と、どの分野でも大陸内で一番を誇っており、名実ともに大陸一の大国だ。  この大陸は半島と湾が多く複雑な形をしており、オリジーアは大陸北部から逆三角形をかたどるように領土を持っている。国の北側は東西に広く、国の中央は南北に広いという形の領土だ。  その中で、王都ベラックスディーオは国の北側中央に位置している。少し離れた北東にキアシュ山脈を抱え、そこから大陸を東西に分断するように南に向かって流れるノート川を主な水源として、栄えてきた。基本は王政だが、国内には王族の血族、あるいは姻族が城主を務める城が四つあり、その城付近にある都市部の実質的な統治については、城主に任されている部分も多い。  そんなオリジーアの特色は、三公団と呼ばれる組織の存在だ。  三公団とは、騎士団、操言士団、平和民団の三つの組織のことで、唯一の存在である国王以外のすべての国民はそのどれかに所属すること、と定められている。  平和民団は最も所属人数が多いので厳密な組織管理がされていないが、騎士団と操言士団は、細分化された明確な組織構成をしており、名実ともに国と民の支えとなっている。名乗れる所属組織名が「平和民団」だけの一般市民はわざわざ所属まで名乗ることはないが、騎士と操言士は、名乗る際は所属組織をはっきりと述べるのが慣例だ。  そのオリジーアの王都ベラックスディーオ内にあるマルーデッカ地区の一画に、紀更たち家族が住み営む呉服屋つむぎはあった。  紀更の曾祖父が開業したこの店は、一階の街路側が営業スペースで、奥側が作業場、そして二階が紀更たち家族の居住スペースとなっている。増改築を重ねたのでそれなりに広いが、一年前に家族が一人減ってしまった今は、両親と紀更の三人だけが住んでおり、やけに広く感じる毎日だ。 (母さんは縫製の作業中で、父さんは買い付け中。次のお客さんが来る気配は……今のところなし)  店内には色とりどりの生地に、様々な形のボタン、太さの異なる糸などの素材。それから、針や指貫といった用具。それだけでなく、仕立て終わったスカート、ブラウス、ズボン。靴とバッグはないが、帽子や手袋などが少量、丁寧に陳列されている。材料や用具を売るだけでなく、服や小物ぐらいの装飾品なら、個別の注文を受けて作ることもあるのだ。  そうした仕立屋の面もあるので、忙しいときはなかなか休みもとれないのだが、今日は客が少なく、店内の時間はゆっくりと流れている。  穏やかな午後。静かで、思わずうたた寝してしまいそうな、のどかな陽気。  しかし、ゆったりとした初夏の空気とは裏腹に、紀更の胸の中はどんよりと重く、そしてなぜだか少し痛かった。 (私、ひとり……一人だけ)  ふいに胸が痛む。そして去来する、薄く張った膜のように冷たく頼りない心地。  こうして一人でいる時だけではない。  友人と声を上げて笑い合ったあと、ふいに。  両親におやすみなさいと告げたあと、ふいに。  それはこの世界に自分一人しかいないという、錯覚的孤独感。  それは誰も自分のことを気にかけないという、錯覚的疎外感。  最初にこの痛みに気が付いたのは一年前、弟の俊が亡くなった時だった。 ――俊は、紀更が十歳の時に生まれた弟だ。両親にとっては待望の第二子で、母が妊娠したと聞いてから、紀更もその誕生を心待ちにしていた。生まれたての俊の小さくて真っ赤な顔を、今でも鮮明に思い出せるほどだ。  年の離れた弟は、それはそれはかわいくて仕方がなかった。紀更は進んで俊の世話を焼き、そのおかげかまだ一人で立てない頃からすでに、俊はお姉ちゃんっ子だった。  ある日、男の子なのにお姉ちゃんにべったりではよくない、という父の考えで、俊は父と二人で王都を出て、水の村レイトへ出かけた。レイトは王都ベラックスディーオから半日ほどで行ける最も近い都市部で、父いわく「初めての男二人旅」だった。  ところが、二人が水の村レイトに着くなり天気は急変し、それから丸二日間ほど、王都周辺の空は大荒れになった。激しい雷雨と暴風が、朝も夜も関係なく続いた。もしかしたら王都付近だけでなく、国中で天気が崩れていたのかもしれない。  その嵐のため、父と俊は予定よりも長くレイトに滞在した。天気が回復してから王都に戻る算段だった。しかし、王都に帰れたのは父だけだった。俊はわずか六歳で、運悪く雷に打たれて亡くなったのだ。  俊の亡骸と共に帰宅した父は、妻の沙織と紀更の顔を見るなり崩れ落ちてむせび泣いた。紀更も、父と母と一緒になって泣き続けた。  なぜ、どうして幼い俊が、死ななければならなかったのか。どうして雷は、宿の外へほんの一瞬出ただけの俊を狙い撃ちしたのか。自然現象を相手に恨み言を重ねても仕方がないとわかってはいても、紀更は何度だって、俊を奪った天候を恨んだ。  父に俊の死の責任などない。責めるべきはあの強い雨と風、そして落雷という自然現象だ。それなのに、父は後悔と懺悔の言葉を吐き散らかしながら、沙織と紀更に詫び続けた。あの時の父の声を、紀更は一年経った今も忘れられない。  すっかり冷たく、そして硬くなった俊の遺体は共同墓地に埋められた。主のいなくなった小さなサイズの食器や衣服は、急に寂寥感をまとい始めた。呉服屋つむぎの中を慌ただしく駆け回る小さな足音はしなくなり、一家の会話もどことなく少ない。俊のことを何か話そうとして、しかし胸が詰まってどんな言葉も喉に引っかかって出てこない。それでも毎日太陽は昇り、沈んでいく。夜になれば月が白み、星が輝く。  俊がいなくなったことで、紀更たち家族は光を失ったような気持ちだった。しかし以前と変わらない色と速度で一日は過ぎていく。俊が生きていたという気配を少しずつ薄めながら。  とても捨てられそうにない、俊の小さな服に涙を落としながら紀更は何度だって背中を丸めて小さくなった。そうして俊の死を悲しむほどに、いつしか紀更は、自分の胸が痛むのを感じた。それは俊の死を思っての痛みでもあったが、もっと胸の奥底で、自分の根源的な何かが泣いているような気がした。 ――私はひとり……独りはいやなの。  誰かが、「お前は孤独なのだ」と耳元でささやいているようだった。  誰かに、「お前など要らない」と無関心な声で言われて刺されているようだった。  寂しいのか悲しいのか、うまく言葉にできなかったが、こんなにも心細い自分に気付いてほしかった。見つけてほしかった。  そんな紀更たち家族のもとへ操言士団の使者が訪れたのは、俊の死後、約一ヶ月が経った頃のことだった。それはなんの前触れもなく、あまりにも突然の訪問だった。
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