頑張らない勇気

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 「頑張れ」。産まれてこの方生まれて23年。こんな声掛けを嫌というほど聞いてきた。バカまじめな私たちはその都度、その言葉を真に受けすぎる。そんなことを繰り返すうち、私たちの心は次第に濁りだす。濁った心から血液が送り出され、全身を駆け巡る。そうして、自分が生きているのか死んでいるのか、次第に分からななくなっていく。  そう。「頑張る」とは不健全な営みなのだ。私は恐れず、そう主張する。というのも、「頑張る」とは「自身の努力の許容量を超えた状態」であるからだ。要は、自身に無理を強いてしまっているのである。無理をするということは、自分を自分で痛めつけ、大切にしてあげないということだ。こんな状態に陥って、どうして幸福感を享受できるだろう。「生まれてきて、本当に良かった。」と、どうして思えるだろう。  もちろん、努力の素晴らしさは私自身も人並み以上に認めるほうだ。人一倍頑張ればぐんぐんと成長し、早く成果を出せるようになるだろう。気づけば努力の許容量も大きくなっていき、次第に楽々と大量の努力をこなせるようにもなるだろう。そして、よりたくさん努力することができるだろう。努力の好循環スパイラルが巻き起こり、努力は我々を複利的に成長させるはずだ。そう、努力すること自体、素晴らしいことなのだ。ただ私は、努力することと「頑張る」ことは、少し違うニュアンスを持っているのではないかと思う。先述したように、「頑張る」とは無理している状態であるが、努力は必ずしもそうではないのではないか、と私は思う。この点については後ほど詳しく語ろう。  その前に、もう一つ断っておきたい。私は、「頑張れ」という声掛けをする周囲の人々を非難しているわけではない。彼ら彼女らは純粋に我々を応援するつもりでそう言うし、またそれは、必要とあれば全力で我々を支え協力してくれるという意思表示でもある。こんな我々への最大限の愛情表現を、どうして無下にできようか。これから私が主張したいのは、自分自身の心持についてであり、決してこの世界への誹謗中傷ではない。私はただ、我々が「頑張れ」という言葉自体を信じすぎていることを問いかけたいだけだ。そしてただ、つい頑張りすぎてしまう人には、「頑張らない」ことを決意する勇気を持ってほしい、と願っているだけなのだ。  なぜ私が努力の素晴らしさを認めているのにも関わらず「頑張らない」ことを提唱するのか。それは、我々が頑張っていた時以上に、たくさん努力できるようになるためだ。  これを矛盾だと思わないでいただきたい。私は真剣に、努力するために「頑張らない」ことが大切だと信じている。  私は中学生の頃、ソフトテニス部だった。楽しかった。楽しすぎて、いくらでも練習できると思った。部活が終わった後、友人を連れて壁打ちに行っていた。家に帰ったら、筋トレをした。朝起きたら、5キロ走っていた。これを客観的に聞いたら、「あぁ、頑張っているな。」と皆思うことだろう。しかし、当時の私はこれぽっちも頑張ってはいない。なぜなら、ただ楽しくてやっていただけだからである。楽しいので、隙があればソフトテニスに励んでいたというのが本当のところである。おかげで、ソフトテニスに関してはそれなりに良い成績も修めることができた。  もうお分かりだろうか。私が言う「頑張らない」とはこういう状態を指す。つまり、自然と物量をこなしてしまうほど楽しめる状況を創り出すことだ。何かに取り組んでいて、苦しい思いをしている際はつい「もっと頑張らねば。」と思ってしまうものだ。だが、私はこう考え直すよう提案したい。「もっと楽しもう。」と。  とはいえ、楽しくて仕方がない状況というものは、中々意図して作れるものではない。私にだって難しい。だから、まずは少しずつでいい。少しずつ面白がれるような工夫を試していってほしい。例えば、仕事の中で比較的楽しいものと、つまらないものがあるとする。その場合、比較的楽しいもののパイを広げていけるように働きかけてみよう。そうすれば、楽しい業務が増え、仕事にワクワク感を持てるかもしれない。あるいは、どうしてもやらなければいけないことで、面白みが一切見いだせないものもあるだろう。そういった場合も、「頑張らない」という勇気が肝要だ。いかに最小限の努力で、それを終わらせることができるか、脳がすり切れるまで考え抜こう。そうして、極力「頑張らない」。また、いかに「頑張らない」やり方を考える癖がつけば、日々のやるべきこと1つ1つもおそらく洗礼されていくだろう。  中学生の私のように、もうすでに楽しくて仕方がないことを見つけている人もいるだろう。その場合は、おめでとうと言いたい。ぜひそれに全力を注いで欲しい。身になることならなお結構だが、しょうもないことでも私は素晴らしいと思う。それで得られる自己充足感はつまるところ、幸福感に直結するので、それがかなえられれば人生ハッピーであろう。  もちろん、世の中には努力の天才が一定存在する。「頑張るぞ」と思えば思う分だけやれる人たちだ。しかし、私を含めた大多数は、そうはいかない。「頑張るぞ」と思うほど「だるい」「しんどい」「やりたくない」といった悪魔の感情に支配される。そういった、いわば努力の凡人たちには、「頑張らない」ことを意識してほしい。少しは気が楽になるのではなかろうか。  このマインドセットはどうすれば身についていくのか、私が具体的な方法を1つ思案してみた。それは、『自身の辞書から「頑張る」という言葉をなくす』というものだ。一度騙されたと思ってやってみると、面白いことに気づくだろう。我々は無意識下で、どれだけ「頑張る」と言ってしまっているのか、ということに。  恐ろしいことに我々は、無意識下で「頑張る」という言葉を乱用している。これは裏を返すと、我々は「頑張る」という言葉を意識的に使っていないということ。つまり、我々は努力に関して相当な思考放棄をしてしまっている、ということだ。  もしも誰かに「頑張れ」と声掛けするシチュエーションがあれば、一度「頑張れ」以外の言葉を探してみてほしい。例として、ソフトテニス部の応援を想定しよう。プレイヤーに対して、つい「頑張れ」と声掛けしたくなるだろう。そこをぐっとこらえ、何か別の言葉を探してみよう。すると、より具体的な素晴らしいアドバイスが浮かぶはずだ。そして、発想がどんどんクリエイティブ化されていくだろう。あなたは「もっと足を細かく動かして。」とか「相手はバックハンドを打つのを嫌がっているよ。」などと、より明確でためになる声掛けができるようになるはずだ。またそうすればプレイヤーにとっても、より身になる励ましを得ることができ、一層応援に感謝するだろう。  ともあれ、つい頑張りすぎちゃう読者には、まずは自己意識内で「頑張る」という言葉を一切使わなくしてほしい。そして、「私は頑張らないぞ」と言い切る勇気を持とう。「頑張らない」と堂々と想い口に出すのは、ためらいがあるかもしれない。しかし健全に楽しくたくさんの努力をするには「頑張らない」思考法がベストであることは、私なりに主張できたつもりだ。ぜひ勇気をもって、声高々に宣言してみてほしい。「私は絶対に、頑張らないぞ。」と。
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