わからぬ文様

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 死にたい、と毎日思うので、生き抜くためには、毎日死の予行練習をしているのだと考えるよりほかはない。後一回、一日を生きよう、と毎日考えて、それを積み重ねてきた。常に死を心の中に携帯していると、却って生き生きとしている自分に恐怖を覚えてしまう。30年も生きていると、レズビアンであることと希死念慮に関連はなく、他者に対する過敏な反応が私の心を萎縮させているのだと分かる。  人の顔色伺いというのは自らを守るためにする物だが、却ってこれがいきすぎると自傷行為になる。私が欲することを実現するのではなく、人が不快に思うことを避け、相手の欲する言葉を与え、相手の立場に立って不便がないか、喜んでくれるのではないか、と考えて指令を受けたかのように行動する。。。私は心の売春婦だ。  「みなさん、私は優しい、道徳的な、道理をわきまえた、愛情深い思いやりのある人なんです。。。」  私は道に立って体を売っている女と何一つ変わらないじゃないか。むしろ金品を一切受け取らず、醜い男を自宅に連れ込んで身を挺しているのではないか。安い裸体。「私はお人形さんなの、私の膣ぐちゃぐちゃにしてね。」一人の人に愛されるとか一対のカップルが睦まじく暮らす、ということの意味、意義は深く考えても分からないままであった。私が私を愛して、その上で相手を愛するということ、大多数の人の心のなかに備わっているであろうものが、私にはなかった。  高校生の時分、このようなことがあった。学校へ向かう途中、不意に今日は朝礼の司会役であったことに気がついた。少し億劫に感じ、通学路の陸橋から飛び降りる想像が、今日の昼ごはんがラーメンだといいなという願望と同じ位の感覚で頭に浮かんだ。頭の中の私はやすやすと橋の欄干をやすやすと飛び越えて落ちていったのだが、どこにも悲劇的な要素は見当たらなかった。その時私は顔の醜い、性格の悪い嫌われ者の女と頻繁に関係を持っていた。放課後、彼女の家に訪い、相手が叔父から借りたavをながし、その間に二段ベッドですでに興奮して裸になっている女の体を指示通りにさわり、そして自らはなんの快感を得られぬまま終了する、これは「セックス」ではなかったが、同時に他人の裸体を性的な意味で触るという初体験に、類似する出来事であった。  最近、携帯を変えたので写真を整理すると昔好きだった女性のことを思い出した。4年以上前のことで、しかしながら2年間程度自らの特別な存在だった女の写真。そうして別れた後はその存在を忘れることに専念し、溢れ出る記憶に鉄製の蓋を何重にも重ねて、最後に漬物石を置いたうえで、封印した。自ら新たな関心の対象ーつまり付き合う人ーを見つけると、封印が少しずつ解けてきて、まだらに思い出した。終焉に向かった恋の途中、恋人同士の常套な戯れ、都会のあちこちで散見される平平凡凡なデート、近くのスーパー、家の掃除、稚拙なセックス、浮かんでは消えた関係継続に対する小さな疑問、信じて疑わなかった愛、別れ話のときの他人のような横顔。。「ふゆみと上司とは平等な人間なんだよ。仕事上で、役職が違うだけで。どちらが下というのはないんじゃない?」 という言葉を偶に思い出す。
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