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琴絵の実家はかつて伏見で造り酒屋を営んでいた。
今は亡き父の邦彦は経営手段に優れ、当時、標野家は裕福な生活を送っていた。
庶民の娘ながら、邦彦の方針で高等女学校に通わせてもらっていた琴絵は、卒業後は経営面で父の仕事を手伝いたいと勉学にも励んでいた。
母は早くに亡くなっていたが、優しい父と弟、気のいい杜氏と蔵人たちに囲まれて、琴絵は毎日幸せだった。
けれど、幸せに陰りが見え始めたのは、琴絵が十四歳の時。その年の酒が腐造したのだ。蔵は汚染し、数年間の影響が出た。経営は悪化し、酒造りを続けることが難しくなってしまった。
標野家が困窮していく中、琴絵は女学校に通うことができなくなり、退学せざるを得なくなった。
仲の良かった友人たちは、手のひらを返したように冷たくなり、琴絵は胸を痛めた。
家族で内職をしたり、家財を切り売りしたりして生活をしていたが、心労が祟ったのか、病床についてしまった。
「お前に良い嫁ぎ先を見つけてやりたかった」と悔やむ父に、琴絵は力強く声をかけた。
「私はお嫁になんて行きません。将来は、お父様の仕事を手伝いたいと思っていました。お父様、今からでも遅くありません。必ず造り酒屋を復活させましょう。だから早く元気になって」
「お前のように賢い娘なら、どこへ嫁いだってやっていける。良い方を見つけなさい」
父はそう言い残し、亡くなった。
父の死後、琴絵が生まれ育った造り酒屋は売却を余儀なくされた。
働いていた杜氏たちは既に蔵を去っており、弟と二人で取り残された琴絵は、家を出て古い下宿へ移り住んだ。
必死に日々を過ごしているうちに、気が付けば十八歳の春を迎えていた。
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