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「ビールを一本くださいな」
ボーイに頼んでいると、耀子が足早に近付いて来た。
「琴絵さん、大丈夫?」
琴絵に手巾を差し出しながら、気遣ってくれる。どうやら、琴絵と胡蝶のやりとりを見ていたようだ。
「胡蝶さん、相変わらず、琴絵さんに対してひどいわね」
「お客様の前で、あんな嫌がらせをしなくてもいいのに」
他の女給たちも数人近寄ってきて、口々に琴絵に声をかけ、胡蝶を批難する。
「ご心配をおかけしてすみません。私は大丈夫ですから」
琴絵は耀子の手巾を手のひらで断ると、着物の胸元から自分の手巾を取り出し、襟足や髪を拭いた。
この店に勤め始めた当初、琴絵は、年の離れた弟、優のためにお金を稼がねばと気負っていた。
積極的に接客をする琴絵の姿が生意気に映ったのか、すぐさま胡蝶に目を付けられた。
胡蝶の客の誰かが「あの新人の子、初々しくて可愛いね」と言ったのも気に障ったようだ。
この店に入って、ひと月も経たないうちに、胡蝶と取り巻きたちから嫌がらせを受けるようになった。
「つらくなったら言ってね」
「何かあったら話を聞くわ」
心配してくれる耀子や他の女給たちに、琴絵は笑いかけた。
「お気遣いありがとうございます。心強いです」
けれど、期待はしていない。口では心配してくれるものの、カフェーロイアルで女王のようにふるまう胡蝶に対し、おとなしい彼女たちは何もできない。
琴絵としても、胡蝶に目を付けられている自分のせいで、彼女たちに迷惑をかけたくない。それに万が一、彼女たちが胡蝶のいじめの対象になり、この仕事を辞めなければならなくなったら大変だ。
耀子には病気の母がいると聞いている。
もう一人の女給は寡婦で、一人で子どもを育てているらしい。
父親の仕事が上手くいっておらず、家計補助のために働いている女給もいる。皆、必死なのだ。
琴絵も父が亡くなり、今は優と二人暮らし。
生活費を稼がないといけないし、可能なら弟に高等教育を受けさせてやりたい。胡蝶のいじめに屈して仕事を辞めるわけにはいかない。
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