30人が本棚に入れています
本棚に追加
手切れ金の入った封筒を掴め、と。促す燈夜の穏和な声が、鼓膜を擽る。優しさを含み、まどかに笑う燈夜は。霊力を飛ばそうとする宮司や尊に、肌が騒つくような威嚇を向けた。長年、支配からの脱却を望んでいたのに。実際。諦めていた朔来の今後に関する決定権が、戻ってきてしまって。与えられた当然の自由は、使い勝手が分からない。はく、と朔来は緊張を呑む。想いを吐露して怒るのは、東地域の面子だけ。燈夜なら、きっと自己主張が出来て偉いと褒めてくれる。
だから、大丈夫。そう、頭では理解しているのに。これまで朔来を抑圧してきた東地域の意志に今更、逆らうなんて。やっぱり怖い。忌子は真っ当な考えが持てないと、否定されるのも。定規で背中を打たれ。すれ違った他神職から、理不尽な暴力を受けるのも。嫌なのに、身体や精神に染みついた傷は、朔来の反抗を許さない。
「やっぱり、俺は」
「貴方の意志を尊重します、なんて。突然、言われても戸惑いますよね。手切金を受取れば、穏便に僕の神社まで案内します。まだ躊躇う気持ちがあるなら、意識を奪って拐かします。如何ですか?」
「そんなの......狡いです」
震える手を膝上に置き。怖気付いた朔来は俯く。
どうすれば物事が平穏に片付くのか、分からない。
もう、こんな優柔不断で面倒な奴なんか見捨ててくれ。
頭を抱える朔来に。見兼ねた様子で、静かに息を吐いた燈夜は。迷い子に言い聞かすように。向日葵色で香染めた眼を捉える。瞳孔に刻まれた蓮花は、踏みだす朔来の導とさえ思えて。その美しさが、朔来の心臓を揺らす。
あぁ綺麗な、この瞳が好きだ。
その向日葵色が映すのは、愛と慈しみだけだから。
暖かく優しい、あの情を独り占め出来たら。どんなに幸せか。
東地域に植え付けられた、朔来の支配意識を。燈夜が、ゆっくりと溶かしてゆく。
「他の方は、どうか存じませんが。僕は壱度でも、愛すると決めた人間は。誰にも奪われない様に、徹底する質なんです。貴方を東地域に置き去る気は、ありません。強制するのは簡単でしょう、それでも」
僕は。朔来の言葉で、一緒に来ると言って欲しい。
そう訴える燈夜の真剣な表情に。朔来は息を呑む。
朔来に与えられた答えは実質、イエスかハイで。彼の拠点である神社で奉仕するのは、確定だ。これまで朔来は。両親や尊の決めた事柄に従うのが普通で。自分の意見が存在しなかった。けれど。東地域以外の未来が、決まっているなら。少し、頑張ってみたい。
この神様は。朔来自ら、変化へ足を踏み出すまで待ってくれている。こんな回りくどい真似はせず。手首を掴んで背中まで支え、連れ去る方が簡単なのに。朔来が変われる様に導いてくれている。燈夜が捧ぐ愛は、過保護に接するだけの粗悪品じゃない。彼の真摯な姿勢に、この人生を捧げたいと朔来は思った。横目で宮司の顔色を窺いながら朔来は。迷いの纏う指先で、テーブルに放置された封筒を掴む。
ここまで、お膳立てして貰ったのだ。
朔来も自身の殻を破らなければ、燈夜へ失礼になる。
「燈夜サマが名前を呼べば、俺は声を忘れず居られるでしょう。この身体に触れる掌が在る限り、五感は機能し続けます。生命や荒魂に至るまで。久城朔来という存在は、ずっとアンタに仕える神職です!」
久城朔来との神職契約、並びに縁を結びます。
嬉しさを含んだ機械的な燈夜の声が聞こえて。
ゆっくり、持ち上げた香染めた瞳は。神様が契約や力など使う時と同じ、強い光を虹彩に帯びる。視界端で、動揺する宮司と神様の姿が無様に映り込む。
例え。この中央所属の神様が。朔来が持つ、荒魂を目的に近付いたとか。彼の献身が演技で、現状より酷い境遇に置かれたとしても構わない。初めて、朔来が自分で選んだ道に後悔は無いだろう。
遠慮がちに指先を、燈夜の手首へ絡ませれば。心底、嬉しそうに向日葵色の瞳を細めた彼が。朔来の背中に両腕を絡ませ、引き寄せた。やはり、燈夜との密着は安心出来る。触れる肌越しに伝う、燈夜の低めな体温は心地良く。あぁ、本当に好きだな。なんて。情けなく崩れた相好を、その肩に埋めた朔来が。額を擦りつけて、甘えれば。天を仰いだ燈夜が。幸せにします、と弾んだ声で告げる。
「結婚式場は、いつ喚びますか。和と洋、何方の形式も素敵ですね。新婚旅行は定番のハワイで如何でしょう。星空の下で指輪交換が出来れば理想形で。あ、誓いのキスは。ふたりで密やかにしたいです」
「あの、燈夜サマ?過剰な神力の消費は、副作用があるのですか。俺の荒魂に充てられて、興奮状態に......?熱中症の可能性も高いのか」
「チュウしよう、とは。朔来も意外と積極的なのですね。それとも、既成事実が無ければ不安ですか?安心してください。肉体関係が無くても。僕と縁が繋がった以上は、絶対に手放しません!大丈夫です」
「小学生みたいな。聴き間違いをしないでください。その温度差で頭が痛いです。燈夜サマ。どうか、東地域を思いだす暇も無い位。俺を愛してくださいね?粗雑な扱いを受けたら、心が離れてしまうかも」
樺茶色の髪を溢すように。小首を傾げた朔来は、穏やかに笑う。その様を認めた燈夜が、繰返し頷き。仄かに朱く、高揚した顔を着物の袂で隠す。
燈夜は風変わりな神様だ。と、朔来は熟思う。周囲を黙らす程の威厳や神々しさ、気高さを併せ持つ格好良い面は。素の人格が難ありかつ、残念な所為で。前者の部分を台無しにした挙句、微妙に尊敬を抱けない要因となっている。けれど、後述の側面が。人間と神様の距離を、近いと錯覚させるから。こうして朔来が、自分の意見を主張出来た。まあ、燈夜の御戯れに付き合うのは疲れてしまうけれど。素の発言に振回され、酷い体力消耗を自覚した朔来は。深い溜息を溢す。
ただ、間違えるな。と、朔来は自身に言い聞かせる。この不規則に打つ脈と、加速する心臓の鼓動が。燈夜に溺れ過ぎてしまったら。過剰な期待は裏切られた時、錘にしかならないし。情は惨めに縋る邪魔者だから。
「さあ、出立する準備をしましょうか。朔来の荷物は、何方に保管されていますか。婚約者の部屋で荷造りを手伝うイベント、憧れていたんです。古いアルバムを広げて、幼少期の姿や意外な面も見れたり」
「先程から。そんな偏った知識、何処から仕入れてくるんですか。燈夜サマが、気に入る私物は無いと思いますよ。誰もが必ずしも持っている、卒業アルバムだって。俺が映った写真は一枚も存在しません」
「理由を窺っても?」
「忌子だからです。心霊写真ってあるでしょう?あれは質の悪い品だと、見た人間に良くない影響を及ぼす。それと同じです。俺は歴代で最悪な荒魂の持ち主だから、写真越しでも災厄をもたらしてしまう」
「は?少し突出した特徴がある程度で。そんな風に、ひとりを徹底的に否定して排除する。どうして、そんな残酷になれるのですか」
ドスの効いた低い声が響き。窓硝子を割れない程度の亀裂が走る。朔来の身体から腕を解いた燈夜は。唇をひん曲げた憮然とした顔で。瞬きもせず、宮司と神様を凝視する視線など流せば。応接室と社務所を繋ぐ扉が、盛大な破裂音で中心部から真っ二つに折られる。途端、待機中の神職達から悲鳴が上がった。
「また忌子さんが原因の騒動?奥様がクビにすると仰ってたけれど。逆上して荒魂を暴走させたに違いないわ!自業自得な癖に生意気ね」
「待って。あのお客様は何方?来客予定なんて無かったわよ。東地域って、ネット掲示板の創作話みたいな事件が頻発し過ぎなんだから」
「あの御方は中央所属の神様だよ。先日の騒動が、錫司様も知る処になったのだろう。きっと深刻な事態だと。ご判断されたに違いない」
「先輩。奥様が青褪めた顔で応接室を離れた理由も、それですかね。先日の騒動は。結構、大掛かりな復興の儀式でしたし。結界の貼り直しで、宮司や尊様も御力を消耗されたとか。碌な忌子じゃないです」
「和気藹々とした、素敵な職場ですね。御守りの授与を希望される方が、お待ちですよ。ご歓談の前に周囲へ意識を向けては如何ですか」
東分社は、霊力処か。知性や品格も中央に及ばない。
幻滅が混ざる燈夜の声は。すっかり静まり返った、社務所内を反響する。少し仕事に怠慢な彼らも。悪口や鬱憤晴らしの話題に上がる、忌子も。朔来からすれば、普段通りの光景が繰り広げられているのだが。何故か、燈夜の逆鱗に触れたらしい。数拍遅れで。受付対応に駆ける、噂話好きな巫女達を除き。我に返った神職達が、その場で頭を垂れてゆく。穏やかだった雰囲気に畏怖と困惑が混ざった。
冷房特有の涼風が、彼の黒壇色した前髪を撫でる。これが中央に所属する神様の威厳か。険しく厳しい横顔は、凛と美しく。その権威を存在感で示している様な。内面が残念だが、やはり燈夜は格好良い。
貴方の部屋まで案内して頂けますか。
そう、促す燈夜を連れた朔来は。足首の痛みを、装う平静で誤魔化し。私生活を送る母屋に続く、廊下へと向かう。木床の軋んだ音が鳴る中、朔来は浮かぶ疑問符を燈夜に投げる。
「......何故、俺のことで怒ってくださったのですか?」
「どうして。あんな仕打ちを受けても貴方は怒らないのですか?」
「忌子ですから。業を背負って産まれた以上、ある程度は諦めも必要です。それと受けた仕打ちに抵抗する方が、もっと痛い目に遭う。そう気付いた後は、随分と生傷も減ったんですよ?俺は大丈夫だから」
燈夜サマも、ご自身の体裁を優先に考えてください。
そう告げた途端。衝撃が背中を襲い、堪えていた足首の痛みも再熱して。朔来は顔を歪ませる。廊下を差込む木漏れ日が。朔来の襟首を掴み壁へ押付け、殺気など纏わせる燈夜へ向かって微笑む。
あぁ、怒らせてしまったな。
なんて。他人事みたいに考える朔来は、視線を余所行きへ逸らす。燈夜を刺激した、この発言は。東地域で我慢と自己犠牲を繰返す、朔来の生き方だ。大切に想って貰えるのは嬉しいが。これでは、忌子を引取った燈夜まで。どんな人物で印象だと、噂の新たな餌食になってしまう。そんな朔来の姿勢が、燈夜は不服らしい。酷く傷付き、悲しげに歪んだ顔をした燈夜が。力無く、朔来の両肩に手を置いた。
「朔来は。偶々、荒魂が強いだけの。霊力的には上位の得が高い人間だと思います。東分社の方々は、忌子は良くない先入観に囚われて。その奥に隠れた、純度が高い澄んだ魂まで見えていない。だから」
僕が愛する久城朔来を。これ以上、否定しないでください。
懸命な燈夜の訴えに。驚愕で見開かれた、香染めた瞳縁を雫が溜まってゆく。無意識に唇を溢れた、ごめんなさいの言葉は。燈夜に対する信頼の証だ。朔来に宮司候補という肩書きを与えて、連れ帰る理由に。どんな大人の事情が隠れていたとしても。忌子、なんて朔来が抱えた業を否定する癖に。積極的に背負おうとする燈夜の言動が、純粋に嬉しかった。だから。燈夜が朔来を想う気持ちは本物だと、信じられる。
少しずつ、認識を改めていきましょう。
それだけ告げ、朔来を解放しようと。壁から離れてゆく、燈夜の手を掴む。向日葵色を瞠る、彼の胸へ。ここまで、大切に抱えてきた書類を押付ける。その内容など改める燈夜に、朔来の声は覚悟を紡ぐ。
「東分社の裏帳簿。政治家と癒着の証拠です。然るべき機関に告発するつもりでしたが。揉み消される危険もあった。これを渡すことは。燈夜サマへの信用を意味します。どんな事情なのか、存じませんが」
きっと、燈夜サマの役に立つ筈です。
まさしく窮鼠猫を噛む、ですね。人差し指は口許に、片目を閉じて笑えば。軽く眼を瞠った燈夜は。やがて綻ばせた表情を、明るく輝かす。燈夜が懸命に訴える好き、が。どう愛情と違う気持ちなのか。分からない朔来は、彼が差出す好意に応えたいと思った。そして。燈夜にも、同じ想いを返せるようになりたい。
ふと。神御衣の布地が翻り、決意など固めた朔来から視覚を奪う。
また、キスを仕掛けられる。それとも抱き締めて貰える?
随分、愛されているな、なんて。悠長に構える、朔来の嬉しさと期待を裏切って。何かの背中に突き刺さる感覚が、神経から脳へ連絡される。背筋を走る悪寒や違和が走る胸に、困惑しながら見下ろせば。豪奢な装飾品で彩られた矢が、朔来の身体を貫いていた。感覚を鈍らせるのは、驚愕か。或いは、血液が滲まない衣服に現実味を感じられないだけか。不思議と、痛みは無かった。逃走を防ぐ為か。朔来の手首を掴む、燈夜の掌は。外の猛暑と不釣り合いな程に冷たく。酷く心地良かった。
「実は僕。十五夜の晩に、消滅する予定なんです」
琴を爪弾いた声が。抑揚無く、燈夜自身の余命を宣告する。窓枠で区切った向こう側に、明瞭高い蒼穹が映った。予兆すら無い、衝撃的な発言に。塞がらない空いた口と、後頭部を殴られたような錯覚が襲う。こんな時、返すべきだろう適切な言葉が見当たらなくて。居心地の悪さを覚えて、逸らす視線先には。掃除が追いつかず、薄埃の積もる床。遠く聴こえる、風鈴の音に紛れて。
ねぇ、と。酷く甘えた燈夜の囁きが、耳朶を食む。
「あんな。搾取され虐げられる日常は、辛かったでしょう?」
朔来の心を奪った声が、鼓膜に響く。矢の羽根部分を握り締めた燈夜は。更に、胸側へ、それを押込みながら。朔来の肩に頭を預けた。
どうして、こんな真似をするのか。
結婚だの愛してるって。あの言葉は、朔来を油断させる為の嘘だったのか。数分前に渡した、東分社の弱みが目的で朔来は用済みとなった?浮かんだ疑問符は解決せず、ただ脳内を巡る。
神社に植る雑木林から、鳥達が彼方へ羽搏く。逃げた筈だった香染めた瞳孔が、燈夜の方に転がる。彼の言葉は在り来たりな普通だろうに、脅しめいた威圧が感じられて。無自覚に、咎められる真似をした気がした朔来の。理由も分からぬ、罪悪感を抱いた身体は動かなくなってしまった。
あれだけ、愛を求めていたのに。燈夜、という存在が分からなくなり。急速に脈打つ鼓動や、脊髄を撫でる冷汗。そんな風に動揺と混乱など隠せずいる、此方を気遣う素振りは無く。あの向日葵色は、真っ直ぐに香染めた眼を捉えた。
「心中しませんか?道連れにしたい位、好きなんです。命日が一緒だなんて、素敵だと思いませんか。来世で、また巡り会える気がして」
その言葉は。プロポーズに近い重さで、或いは友人同士で遊ぶ約束をする気軽さと似て。命乞いでは無く、運命に抗う宣言でもない。未来を受容れた、落着いた声だった。
酸素を肺に送り込む、燈夜の動作に合わせ。艶やかな黒壇髪が、肩から滑り落ちてゆく。感情の読めない微笑みを前に。詳細な事情を尋ねる程、朔来は肝が据わっていないし。それも悪くないね、と同調する勇気も無くて。けれど。心中したい程に好き、と言われた事実が嬉しかったから。せめて、曖昧に濁そうと考えた。持上げた香染めた瞳孔に映した、燈夜の姿は。手を伸ばして触れたい衝動に駆られる程、清廉で美しくて。その提案に、深く考えず頷いてしまう。
途端。朔来の胸を貫く矢が。金色に輝き、光の粒へと霧散して消える。突き飛ばされるように、遠退く意識が最後に。神楽鈴の清涼な音を拾った。
「ここまで痕を付ければ、大丈夫でしょう。全く、東分社も愚かですね。彼らも、本当に忌子が必要なら。もう少し、大切にすれば良かったんです。取り戻されないように、閉じ込めて。絶対、離しません」
まあ。お陰で朔来を僕のモノに出来たので、感謝が必要ですね。
これで朔来と、ずっと一緒です。骨の髄まで愛し尽くしますから。
力が抜けた朔来の身体を、抱えた燈夜は。瞳は月のように歪ませ、醜怪な笑顔を浮かべた。
元職場、燃やしますか?
結婚式場、呼びましょうか。
どうすれば、この好きが届きますか。
最初のコメントを投稿しよう!