2章 勿忘草を咲かせるために  第1話 大きな借りもの

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2章 勿忘草を咲かせるために  第1話 大きな借りもの

 容姿の良さは、その人の人生を決める、こともある。  それを武器に、例えば芸能界でのし上がって行く人もいる。とはいえ、それだけで大成しないのが芸能界だとは思うが。  一芸。それは重要な一手である。演技、歌、お笑い。様々だ。  だが本当に必要不可欠なのは「頭の良さ」、そして「礼節」だと世都(せと)は思っている。  頭の良さとは、勉学のことでは無い。頭の回転だ。ボケへの小粋(こいき)なツッコミも頭の回転が良く無ければできない。このふたつは混合されがちだが、同じ様でまったく違う。  もちろん両方を兼ね揃えている人は大勢いる。本当に羨ましいと思う。  しかしそうした人であっても、決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)には行かないのだなと、思うことがあるのだ。  季節は春。頭上では桜が華やかに開き始め、地面の花々もその可憐さを発揮する。新生活が始まる人々の心はきっと期待などに膨らんでいるだろう。  相川沙有里(あいかわさゆり)さんは、ご常連のとても美しい女性である。黒い髪は肩のあたりで軽い前下がりになっていて、猫の様な丸い目はきらりと黒く、薄い唇はいつも淡いくすみピンクで彩られている。  歳はまだ若く、20台後半だったと思う。相川さんは2週に1度の週末、この「はなやぎ」でのお酒を楽しみに、日々を過ごしているのだと言った。 「まだ大学のときの奨学金を返してるんですよ。なんで、あんま贅沢できひんで」  今や、大学に進学するふたりにひとりが奨学金を借りると聞く。国公立か私学かでその金額も大きく変わるだろうが、大学に必要な学費は膨大である。それを学生の身分で背負い、卒業してから返すのだから、大変なことだと思う。  相川さんは美しいだけでは無く、才媛(さいえん)なのだ。大阪の国立大学にストレート入学、現役で卒業しているのだ。そのまま大学院博士課程に進み、今は助教として大学で研究を続けている。  世都は幸いにも親が高収入だったお陰で、大学まで出してもらうことができた。お小遣いこそアルバイトで稼いでいたが、それがとてもありがたいことだったのだとしみじみ感じるのだ。  そう言えば実家を出てからあまり連絡をしていない。家族は元気にしているだろうか。  相川さんのお気に入りは、千利休(せんのりきゅう)純米酒である。こちらは大阪の利休蔵(りきゅうぐら)(かも)される日本酒で、控えめな甘さと米の旨味、心地よくすっきりとした飲み口を持つ。  千利休はお値段的にもお手軽に流通していて、この「はなやぎ」でもお手頃価格で提供できている。日々節約に励んでいる相川さんが頼みやすい銘柄とも言えるのだ。  ただ、世都もただお手頃だからという理由だけで仕入れているわけでは無い。ちゃんとその実力が伴っているからだ。地元大阪のお酒だからという贔屓目(ひいきめ)はあるかも知れないが、そのバランスの良さは世都が保証する。  相川さんは千利休をちびりと舐めながら、今日のお惣菜のひとつ、アスパラガスのごま和えにお(はし)を伸ばした。  アスパラガスはレンジで火を通し、和え衣は煮切った日本酒、お砂糖、お醤油、すり白ごまで作る。白ごまは炒りごまを用意し、あらためてフライパンで乾煎りし、すり鉢で擦る。そこに調味料を加え、アスパラガスを和えるのだ。  旬の瑞々しいアスパラガスに香ばしい白ごまの和え衣。風味豊かな一品である。  相川さんは節約のため、「はなやぎ」に来る前にファストフードでお食事を済ませている。岡町(おかまち)駅周辺には店舗が少ないのだが、お勤め先の大阪梅田駅周辺なら掃いて捨てるほどある。  それでも普段自炊などをして(つつ)ましく生活をしている相川さんだ。2週に1度のご褒美だと思うと、少しぐらい奮発しても許されるのではと思っても無理は無い。  では、「はなやぎ」に来ない週末には何をしているのかと言うと。  デートである。  相川さんには、結婚を前提にお付き合いをしている男性がいるのだ。大学生のころに出会った同級生で、その相手は大学卒業後に一般企業に就職している。  ふたりは結婚の時期を決めかねているのだと相川さんは言った。国立大学とはいえ、大学4年間に大学院5年間、計9年の学費は大きい。奨学金の返済を終えてからが妥当だと思うのだ。  奨学金で進学したことは後悔していない。相川さんはそう言った。相川さんには学びたいものがあったのだ。そのための奨学金は価値のあるものだ。  だが借金だという側面が大きいことも理解している。それを返還しないと相手にも迷惑を掛けてしまうかも知れないし、親御さんにも不審に思われてしまうかも知れない。  なので、相川さんは悩み、その端正な顔を曇らせてしまうのだった。
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