2章 勿忘草を咲かせるために  第7話 水茄子の堅実さ

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2章 勿忘草を咲かせるために  第7話 水茄子の堅実さ

 相川(あいかわ)さんは千利休(せんのりきゅう)で唇を湿らすと、また穏やかな表情で口を開く。 「ご援助はさすがに断りましたけど、奨学金返済分はありがたくいただくことにしました。ほんまに奇跡が起きた気分です。ほんまやったら自分で返すんが筋なんでしょうけど、お相手さんのご厚意でもありますし。って、都合良すぎですかね」  そんなことを言いながら、苦笑を浮かべる。世都は「いいえ」と首を振った。 「今までご苦労されたんですから、当然の権利っちゅうか、受け取ってええご厚意やと思いますよ」 「苦労……、あんま苦労してきた実感は無いんですけどね」 「それは麻痺してます。はたから見たら、相川さんのこれまではめっちゃハードモードですからね」 「そうなんですかねぇ」  ご祖父母が亡くなり、お母さまとふたりになってから、相川さんは相当大変だったはずだ。お母さまはお仕事の都合で夜は家にいなかっただろうし、ネグレクトというのだからお世話もされておらず、家事などもしていたかどうかも怪しい。  それでも相川さんはこんなにも立派に成長した。これからは、これまでのことを帳消しにするほどに幸せになって欲しい。  結婚だってきっと祝福されるはずだ。それを(はば)んでいた奨学金の返済が解消するのだから。 「これからですよ、相川さん。きっとこれからの相川さんには、たーくさんのええことが待ってますよ!」  世都が満面の笑顔で言うと、相川さんは(ほが)らかな笑みを浮かべた。ああ、なんて美しいのだろう。 「それやったら嬉しいです」 「凄いな。こんな漫画みたいな話、ほんまにあるんやなぁ」  高階さんが感心した様に言いながら、東洋美人(とうようびじん)純米大吟醸壱番纏(いちばんまとい)を傾ける。  東洋美人は山口県の澄川(すみかわ)酒造場さんが醸す日本酒だ。フルーティな甘さが際立っているのだが、かすかな酸味が全体を引き締めている。  お惣菜は水茄子の塩昆布漬けである。水茄子は泉州(せんしゅう)地域で栽培される大阪の特産品だ。見た目は丸く、形は京都の賀茂茄子や米茄子に似ている。  一般的な細長いお茄子と比べると水分が多くて瑞々しく、生食に適している。さっくりとした歯応えで、そっと噛み締めると爽やかなジュースが溢れてくるのだ。シーズンになれば百貨店やスーパーなどでは生はもちろん、浅漬けやぬか漬けなどが並ぶ。  塩昆布漬けは水茄子を厚めの半月切りやいちょう切りにし、ナイロン袋に塩昆布と一緒に入れて、袋越しにがしがしと揉んで作る。水茄子に昆布の旨味とほのかな塩気がまとい、良い味わいになるのだ。  漫画みたいな話。言われずとも相川さんのことだと分かる。世都もそう思う。お相手にとって相川さんは結婚相手の娘である。当時の相川さんの年齢だと、本来なら生計をともにしてもおかしくは無い。なのにそうはならなかった。  なので冷たい様だが、お相手に相川さんを助ける義理は無いと言える。事態を引き起こしたのはお母さまで、本来ならお母さまが請け負うことなのだ。  だがきっとお母さまには生活能力が無い。恐らく結婚以降はお相手に寄り掛かって生きて来たのだろう。だから相川さんの現状を招いたのだ。  相川さんに生活費を渡せるほどのお金は動かせたそうで、それだけは幸いだった。曲がりなりにも親として、それだけはと思ったのだろう。罪悪感もあったのかも知れない。  それでも相川さんは折れず、自らの道を築き上げて来た。きっとまだまだ道半ばだ。そしてこれからの相川さんの前途に、輝く光がぱぁっと差した。 「ほんまですね。でもこれで、相川さんはもっともっとええ様になりますよ」 「せやな。なんや酒もいつもより旨く感じるわ。あ、せやから相川さん、いつもは迷わず千利休やのに、今日は迷いはったんや。これからは過度な節約いらんくなるもんなぁ」 「それでも結局千利休を頼まはるところに、相川さんの堅実(けんじつ)さが表れてる感じがしますよねぇ」 「ほんまやな」  高階さんはおかしそうに、くつくつと笑った。
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