3章 チョコレートコスモスを添えて  第1話 フレッシュチーズの朗らかさ

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3章 チョコレートコスモスを添えて  第1話 フレッシュチーズの朗らかさ

 11月になり、世間はすっかり冬の佇まいである。吹く風は冷たくなり、人々はコートやマフラーで身を包む。  ご常連の勝川(かつかわ)さんも、完全防備で現れた。勝川さんは奥さまと娘さんひとりがいる会社員である。中肉中背、柔和(にゅうわ)な顔立ちが人柄を表している様だ。実際、しゃべり口調も穏やかで、言葉使いも丁寧なお客さまである。  勝川さんの奥さまは専業主婦らしく、普段、娘さんのお世話も含めて関わってくれるのなら、週に1度の息抜きにと「はなやぎ」に来るのを許してくれるらしい。尻に敷かれているのかな、なんて思うのだが、それぐらいの方が夫婦関係は巧くいくなんて話も聞いたことがある。  何よりそれで勝川さんに不満が無いのなら、何ら問題は無いのだろう。  勝川さんのお気に入りのお酒は、天狗舞山廃(てんぐまいやまはい)仕込純米酒で作るハイボールである。  天狗舞は石川県の車多(しゃた)酒造が醸す日本酒である。山廃仕込み特有の濃厚な香りと酸味の調和が取れた一品だ。メーカーおすすめは冷ややぬる燗なのだが、きんと冷えたハイボールでも充分楽しめる。  お食事は鶏肉が好きだとのことで、鶏肉料理のどれかを必ず頼む。そして奥さまに必ず食べて欲しいと言われている、青菜の炒め。こちらは季節によって使うお野菜を変えている。  今日勝川さんが選んだのは、鶏肉と白ねぎの甘辛炒めである。たれ味の焼き鳥を思わせる味付けにしてある。青菜炒めはわさび菜だ。  勝川さんはにこにこと笑顔でそれらを平らげると、1杯目の天狗舞山廃ハイボールを飲み干して「はぁ〜」と心地の良いため息を吐いた。 「やっぱりここでいただくごはんはええですねぇ。ほっとします。あ、お代わりお願いします。それとモッツァレラのわさび醤油和えください」 「はい。お待ちくださいね」  龍平(りゅうへい)くんが空いた食器を引き上げ、世都(せと)は新しいタンブラーにお代わりを作る。日本酒ハイボールは日本酒と炭酸水が1対1。氷をほどほどに詰めて、天狗舞山廃仕込、そして炭酸水を注いでマドラーで軽くステアする。 「はい。お待たせしました」 「ありがとう」  勝川さんは2杯目は、こちらも好物のチーズをつまみながら楽しむ。「はなやぎ」にはチーズのおしながきがいくつかあり、それらの中から選んでいる。  モッツァレラチーズのわさび醤油和えは、手でちぎった一口大のモッツァレラチーズをわさび醤油で和えるだけのシンプルなものだ。クリーミィでどこか爽やかなモッツァレラチーズにぴりっとしたわさび醤油が良く合い、日本酒にも合う一品になるのだ。  ボウルで和えたそれを小鉢に盛り付け、提供した。 「こちらも、お待たせしました」 「ありがとう」  勝川さんはハイボールを口に含み、モッツァレラチーズを追い掛けさせた。思ったことが表情に良く出る人なので、その口角の上がり方から、満足していることが見て取れる。  お仕事のあとの、週に1度の息抜き。お仕事も大変だろうが、娘さんがまだ小さいそうだから、お家に帰っても忙しく過ごすのだろう。この「はなやぎ」で少しでもガス抜きをしてもらえたらと思うのだ。  1週間後、また寒さが増して来た。  お食事を終えた勝川さん、いつもの天狗舞山廃のハイボール2杯目と、今日のチーズはクリームチーズのお味噌和えである。  お味噌を煮切った日本酒と少量のお醤油で伸ばし、お砂糖で甘みを加えた衣で、角切りにしたクリームチーズを和えたものだ。  ねっとしとしたほのかな酸味を含むクリームチーズに、お味噌の柔らかな甘みが合うのである。  そうしていつもと変わらない様に見える勝川さんだが、時折浮かない表情を見せる。憂鬱そうなため息も。何か心配ごとでもあるのだろうかと、世都は少し心配になってしまう。  そりゃあ勝川さんだって、毎日楽しいことばかりでは無いだろう。お仕事は大変だろうし、娘さんは幼稚園児だが、もしかしたら触れ合いにすれ違いが出てしまうこともあるかも知れない。父娘の難しいところもあるだろう。  かなり前のことだが、勝川さんにお子さんが生まれるとなり、性別が女の子だと判明したとき。 「どう接したらええんか分からんで。うち、兄弟も親戚も男ばっかりやから」  見事な男系家系だと言うのだ。これまであまり、奥さま以外の女性と関わったことも無かったそうだ。大学に入学して始めてできた恋人が、今の奥さまなのだった。  そこで、ああ、ちゃんと奥さまと一緒に子育てをしようと思っているのだな、と好感を持った。 「そういうのって、占いで分かったりせんでしょうか」  それはタロット占いと言うよりは相談事の様な気がしたが、それで勝川さんの気が済むのなら、と世都はカードを切った。  出たカードは覚えていないが、確かこんなことを言ったのだったと思う。 「男の子や女の子や無くて、その子の個性を大事にしてあげてください。それに今は男らしくとか女らしくとか、そういう線引きが曖昧になってる時代になってるなって思います。もちろん区別は必要やと思いますけど」  それに勝川さんは納得してくれて、満足げな顔で帰って行った。正直子どものいない世都の解釈がどこまで当てになったのかは不明だが、それでも「はなやぎ」に来る勝川さんはいつも朗らかだったのだ。  そんな勝川さんに見える小さな(かげ)りに、世都は引っ掛かりを感じるのだった。
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