1章 ばら色の日々  第5話 ちりめんじゃこが爆ぜるとき

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1章 ばら色の日々  第5話 ちりめんじゃこが爆ぜるとき

 9月に入った。(こよみ)の上では秋になったが、夏の名残りはまだまだ深い。気温と湿度はまだ高く、本来なら恵みの太陽も(うと)ましいと感じてしまう有様だ。  今日の開店前の占い結果は「ペンタクルの2の正位置」だった。臨機応変や柔軟性などの意味を持つ。何かトラブルでも起こるのだろうか。正位置でも悪い意味は含まれていて、その場しのぎや適当など。 「……あんま、良うないかな?」  世都(せと)はつい眉をしかめてしまう。だが考えても仕方が無いとすぐに切り替える。これも柔軟性のひとつである。 「ん、気を付けよ」  調和などの意味もあって良い結果なはずなのに、どうにも嫌な予感が(ぬぐ)えない。疲れているのだろうか。確かに夏の暑さに翻弄(ほんろう)されて、そろそろ疲れが出て来てもおかしくは無いのだが。  18時半ごろになって結城(ゆうき)さんが気まずそうに顔を(のぞ)かせたとき、世都は「ああ」と合点がいった。占い結果通りのトラブルにはならないだろうが、そう感じたのだ。 「こんばんは。あの、この前はすいませんでした。うっかりしてました」  入るなりそう頭を下げるので、世都は前回来られたときのことだろうかと思い至る。 「私、この前来たとき、何も飲まんと帰ってしもて。喋るだけ喋って、あまりにも失礼やったと思って」  結城さんは申し訳無さげに目を伏せる。どうやら深く反省している様だ。  世都はあまり気にしていない。驚きはしたし(なか)ば呆れもしたが、意中の相手とお付き合いできることになって、よほど嬉しくてそれどころでは無かったのだろうと理解できる。だから世都は安心してもらえる様に微笑んだ。 「大丈夫ですよ。またご注文いただけたら」  すると結城さんはほっとした様に表情を緩ませた。 「ほんまにありがとうございます……!」  そう言って深く頭を下げた。そして顔を上げたとき、気持ちを切り替えたのかその表情は嬉しそうな笑顔に満ちている。良いことがありました、まるでそう言っている様だ。 「あの、今日はもちろんちゃんと注文しますから、またお話と、あと、占い、お願いしてええですか?」 「ええ、ええですよ。まずはお掛けくださいね」 「ありがとうございます」  そう言って結城さんはカウンタ席に腰を降ろす。まだ早い時間帯なのでお客さまはぽつぽつといる程度。席は自由に選べるので、結城さんは占いのことを見越してか奥の席に座った。世都は冷たいおしぼりを渡す。 「あの、お食事もしたいんですけど、合うスパークリングってありますか?」 「それでしたら、上善如水(じょうぜんみずのごとし)のスパークリングはどうですか? どっちかっちゅうたら辛口ですっきりしてるんですけど、柔らかな甘みもあって、お食事には合うと思いますよ」  上善如水スパークリングは、新潟県の白瀧(しらたき)酒造で醸されているスパークリング日本酒である。まるで水の様に飲みやすいと長年飲み継がれている日本酒上善如水のスパークリングなので、こちらも軽くするすると飲めてしまうのだ。 「ほな、それお願いします。それと」  結城さんは1枚もののおしながきをぺらりと眺めた。 「鶏の照り焼きと、ちりめんじゃこの温サラダください」 「はい。お待ちくださいね」  上善如水スパークリングをワイングラスで出すのは龍平(りゅうへい)くんに任せて。  世都はまずちりめんじゃこのサラダから取り掛かる。小さなフライパンを火に掛け、少し多めのごま油を温める。  その間にもうひとつフライパンを出し、米油を温めて鳥もも肉を皮目から置いた。続けて器に千切ったサニーレタスをこんもりと盛り付けておく。  フライパンにちりめんじゃこをじゅわぁっと入れて、ちりちりと素揚げにする。火を落としてポン酢を入れたらさっと混ぜて、それをレタスに掛けた。 「はい、ちりめんじゃこの温サラダです。照り焼きもう少しお待ちくださいね」 「ありがとうございます」  結城さんはさっそく温サラダをお(はし)で口に運んで「んー」と満足そうに目を細めた。  熱いごま油とポン酢、ちりめんじゃこを掛けることでサニーレタスがしんなりとなり、たくさん食べることができる。香ばしいごま油のオイリーさをポン酢が中和し、かりかりのちりめんじゃこが全体の風味を高めるのだ。  鶏の照り焼きのたれは、日本酒とお砂糖、お醤油と蜂蜜を合わせたものである。みりんを使うレシピも多いが、お肉を固くしてしまうので「はなやぎ」では使わない。蜂蜜でも充分良い照りが出るのだ。  そして焼き上がった照り焼きを包丁で切り分けて、大葉を敷いた角皿に盛り付けた。  こうしてお料理を整える時間は、心が落ち着く。ゆっくりとゆっくりと、穏やかに心が()いで行く。  世都にだって心がささくれ立つときがある。だがそれを救ってくれたのがお料理だった。これまで何年もの間お料理に携わって来て、それだけは変わらないのだ。  だがひと段落着いたら結城さんを占うことになる。それに世都は心をざわつかせるのだった。
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