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プロローグ
外はしとしとと雨が降りそぼっている。今は全国的に梅雨の季節。それはこの岡町にもすっかりと覆いかぶさっている。
日本酒バー「はなやぎ」は、大阪府豊中市の岡町商店街にある、カウンタ席とソファ席が数席のこぢんまりとしたお店である。店主である32歳の小柳世都が、数歳年下である店員の坂道龍平と切り盛りしている。
日本全国津々浦々から様々な日本酒を取り寄せ、お料理にも力を入れている。お料理や日本酒の用意は基本世都が、龍平は世都の補助と、洗い物や細々とした雑用を担当していた。
バーとは言え、店内は比較的明るめである。日本酒もだが、お料理も楽しんで欲しいからだ。内装は白や淡い木材を使って柔らかな雰囲気を作っている。
世都は淡い草色の小紋の上に白い割烹着を着け、せっせと包丁を持つ手を動かす。シンクではバーテンダーを思わせる、白シャツに黒ボトムにグレンチェックベスト姿の龍平が、世都が使い終わった調理器具などを手際良く洗ってくれている。
世都はこだわりあっての和服なのだが、髪を結うのが面倒くさいという身も蓋もない理由で、ショートカットを貫いていた。
17時半、仕込みや作り置き料理の支度を終えた世都は、カウンタ席の最奥に腰を降ろし、傍らのカードの束を手にする。使い込んではいるものの、頑丈な紙製なのでまだまだ現役である。
裏面にして置いたら両手を使って丹念にかき回し、手早く揃えてまとめたら縦向きに置き、3等分に分ける。それを順番が入れ替わる様に重ねたら、いちばん上のカードをぴっとめくった。
出て来たのは「塔の正位置」だった。
「あはは、龍平くん、今日はお客入り少なそうやわ」
世都が軽い調子で笑って言うと、乾いた布で切子グラスを磨いていた龍平くんが呆れた様に口を開く。
「そらそうやろ。今日は雨やねんから。世都さんもそのつもりで仕込んどったやんか」
この「はなやぎ」のある岡町商店街は全体の半分がアーケードになっていて、「はなやぎ」の場所もそこに含まれる。なので商店街に辿り着いてくれれば傘は不要になる。だがそこまでが雨なら、結局は同じである。
だが岡町商店街は駅から近い。最寄りは阪急電車宝塚線の岡町駅だ。お仕事や用事を終えて電車を下車した人が「ちょっと寄ってこか」なんて思ってくれたらめっけもんである。だがそう上手く行くものでは無い。
「今日「は」、やなくて今日「も」、やな。早よ梅雨明けてくれへんかな〜」
そう愚痴ったところで雨雲は晴れない。分かってはいるのだが、言わずにはいられない経営者としての心境なのだ。
世都が扱っているカードは、タロットカードである。占いのひとつであるタロット占いで用いられるカードであり、大アルカナ22枚と小アルカナ56枚で構成されている。
カードそれぞれに意味があり、絵札が正位置か逆位置かで持つものが変わる。今引いたばかりの「塔」、逆位置なら危機回避の意味になるのだが。
「でも「塔の正位置」やねん。もしかしたら驕りとかがあるんかも知れん。謙虚さを忘れたらあかんで、龍平くん」
正位置ならトラブルなどの暗示である。また変革のイメージを持ち、崩壊や傲慢などを示すのだ。
「何で俺やねん」
ふたりはそんな軽口を叩く。いつものことである。
しかし、嫌な結果ではある。世都はお客さまが多かろうが少なかろうが、お客さまへのおもてなしの心を忘れてはならないと心の帯を締め直す。
世都は毎日、こうして1枚でその日の「はなやぎ」の運勢を見るのだ。それは自分への戒めのためである。良い結果ならそれはそれで良し、目的は昨日よりもより良いお店にするために、だ。
そうして時間になり、「はなやぎ」は「OPEN」の札を掲げる。
とはいえ、しばらくは閑散とした時間が続く。世都はカウンタの奥で暇を持て余し、龍平くんは磨き終えたグラスをさらに磨いて。
ドアが開いたのは、30分ほどが経ったころだった。顔を覗かせたのはご常連の若い男性である。グレイのスーツを着込んでいるのでお仕事帰りだろう。お客さまは雨に濡れたこうもり傘を傘立てに突っ込んだ。
「毎度!」
そんな軽やかなお客さまの挨拶に世都は笑みを零す。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
龍平くんも小さく頭を下げてお客さまをお迎えする。
「あー雨ほんま鬱陶しいわ。女将、焼きうどんちょうだい」
そんなせりふに世都は噴き出す。
「焼きうどんて。日本酒と合いませんやん」
するとお客さまこそが「ぶはっ」と噴き出した。
「メニューにあんのに何言うてんねん。ほんまおかしな女将やで。それに日本酒ハイボールがあるやん」
「あ、そっか。あはは!」
世都が笑い声を上げるとお客さまも楽しそうに笑い、龍平くんはまた呆れた様なため息を吐く。
いつものことだ。世都がお客さまと悪ノリしそうになると龍平くんが宥めてくれる。それがいつもの「はなやぎ」なのだ。
「よっしゃ。ほな、焼きうどん作ろか。でも日本酒も頼みますよ。今日もええ子揃いですからね〜」
世都が言うと、お客さまは「分かっとるって」とからから笑う。
焼きうどんを作るため世都はカウンタの内側の厨房に立ち、うどん玉を耐熱皿に置いてレンジに入れた。
続けてフライパンを出す。火に掛けて米油を引き、温まったところに玉ねぎのスライスを放り込む。
じゅわぁっと音が上がり、やがて甘い香りがお店中に漂い始めた。
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