火曜日のざる中華

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火曜日のざる中華

 熱い。  額に流れる汗を拭う。オフィス街はアスファルトとビルの照り返しで、天気予報よりも体感温度が十度くらい違うように感じる。  まだ六月だというのに容赦なく照り付ける太陽を睨んでも、目が眩んでしまうばかり。こんな日は冷たい何か、啜れるものを食べたくなるものだ。 「昼飯、昼飯…うーん」  やはりあの店しかないだろう。熱くても冷たくても美味いものを出してくれる、あのラーメン屋。既にその魅力に取りつかれ、『昇天軒』と達筆な筆文字が書かれた赤い暖簾を目指す。  昼休みが始まった頃とあって、店の前には既に何人か並んでいた。 「あっ!岩下さん、お疲れ様です」 「よっ、お疲れ様。今日は間に合ったな?」 「はい、事前に小銭用意してましたから…」  同じ部署の後輩が先に並んでいて、思わずニヤリと笑ってしまう。昨日は長く連なる行列を見て、昼休みの終了時刻に間に合わないと泣く泣く職場に戻った奴だ。その後職場に戻ると昼はコンビニのおにぎりで済ませたと言うから、なんとも言えずやりきれない顔で頷くしかなかった。以前この店を紹介して以来、あの味が忘れられないと単身でもたまに来ているらしい。 「…それにしてもこの店の名前、何と言うか…」 「縁起でもないとか言うなよ。天にも昇る美味い店って意味だよ」  前の列が数人店の中に吸い込まれるのを見て、おれも後に続く。扉の向こうはやはり今日も満席に近く、女将であるおばちゃんがてきぱきと店内を闊歩している。 「いらっしゃい!あっ、岩ちゃん相席でお願いね」 「はいよ。…あ、あんたは」 「…どうも」  見知った顔をみて、やっぱり笑いが込み上げてしまった。 ×   ×   ×  ざる中華を持ち上げていた箸が止まった。空いている目の前の席に、昨日相席した男が座る。こんな偶然があるのかと思いつつ、彼は俺の顔を見るなりにやりと笑い掛けて来た。まるで同じ穴の貉を見ているかのような眼だ。 「あっ…確か…」 「昨日のご新規さんだろ?おばちゃん、おれもざる醤油、大盛で。あっ、葱も山盛りな!」 「はいよ!」  慣れた口ぶりからすると、何度もこの店に来て食べているかのようだ。俺の動きが止まっている手を一瞥し、「伸びちまうよ」と一言いわれ再び麺を啜る。  昨日この店の中華そばを食べてから、またあの味が食べたくなった。今日は昼休みのチャイムと同時にこの店を目掛けて職場を出て、夏季限定という「ざる中華」を注文していた。醤油ベースのつけ汁は冷たく、かつおだしと鶏ガラスープが合わさりあっさりしている。それでいて魚介スープ特有の魚臭さがなく、初めて口に入れた時から食べやすいなと思った。温かい中華そばとは違い、鶏油の代わりにごま油とニンニクが効いていて食欲がそそられる。またひと口、と後をひく美味しさだ。 「…あの、山上って言います」 「ん?」 「昨日この店に来てから、またここに来たくなりました。おすすめ教えてくださいと店の人に聞いたら、今日からざる中華始めましたって言われて…この店のメニューがどんな味かは、今度岩ちゃんに聞いたらいいよと…」 「あぁ~…ったく、忙しいからって人を広告塔みたいにアピールしやがって…」 「何言ってんの!岩ちゃんのおかげで沢山常連さんが生まれたんだから」  女将さんのその声に、店内から噎せたり笑ったりする声があちこちから聞こえる。  岩ちゃんと呼ばれている人が目の前にいる人であることは、昨日から知っていた。だけど相手の名前を知っていて、自分の名を伏せたままなのは社会人として礼儀に欠ける。故に自己紹介したのだけれど、岩ちゃんは手をひらひらと振って笑いながら言った。 「…おれぁ岩下だ。おまえさんは今日から山ちゃんだな」 「えっ」 「はい、お待ち!」  最後のひと口を啜って麺に染み込むうまみを噛み締めていると、向かいにもざる中華が運ばれてくる。 「また今日も来ると思ってたんだ」  割りばしを手にしながら、彼は不敵に笑った。
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