水曜労働醤油ラーメン

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水曜労働醤油ラーメン

 定時のチャイムが鳴っても、俺の一日はまだ終わらない。  やりかけだった書類仕事に打ち合わせの段取り、会議室の空室確認にゴミ箱の片付けまで。まだ若いからとか新入りだとかは関係ない。思い立ったら直ぐにやる、それが俺の所属するすぐやる課のモットーだった。この株式会社フクタカに入社して一年と少し、ようやくこの職場の雰囲気に慣れてはきたけれど、ちゃんと残業代は出るし昼食手当もあるし有給は月一日必ず取れる。今のところストレスはなく、理想と言っていいこの会社に入れて後悔はしていない。しかし、こうして残業のある日は夕飯をどうしようか、そればかり考えてしまう。  コンビニの弁当は昨今となって、栄養価や食材、味付けに拘った『健康志向』のものも多くなった。それでも毎日食べていれば飽きてしまうし、自炊しようにも帰宅してくたびれた身体で作れるものなんてたかが知れている。休日に作り置きしていた冷凍カレーも冷凍チャーハンも食べ尽くし、まともに料理ができるのは残業のない日か次の土曜日になる。  外食も嫌いじゃないけれど、牛丼やうどんのチェーン店は後日に取っておきたい。今日の気分は…まさしく。 「…あ。ラーメン食べたい。」  メニューは決まった。後はこの労働を乗り切るだけだ。 ×   ×   × 「さて…発注のとりまとめはこんなものかい?」 『はい、こちらのデータは先程転送したもので最後になります』 「はいよ。ご苦労さん」  経理部に所属する同期から連絡を貰い、データをチェックしている最中に天井近くのスピーカーから夕礼開始のチャイムが鳴る。これが聞こえるってことは終業時刻十分前なのだけど、生憎今日は定時で帰れる状況ではない。夕飯はまぁ...。自分へのご褒美ってことで行く場所は決めてある。 『…岩下さん、何か嬉しそうですね?』 「そうかい?まぁ、昼休みに行きつけの店でちょっとしたオトモダチが増えてさ。安川くんも今度一緒に行こうや。あとほら、人事の髙野くんもラーメン好きだったっけ」 『はは…行きたいとこなんですけど、毎日弁当持たされてるんで事前連絡がいるんです』 「もしかして恋人とか?やるねぇ、若者よ」 『やるねぇ、って岩下さんもおれらと同期で同い年じゃないですか!』 「いーのいーの。おっさんはおっさんらしく、ひとりラーメン啜りに行くよ。それじゃ、お疲れ様でした」 『はい…お疲れ様でした』  内線電話を切り、一息つく。確かに同期からは「年上かと思った」「先輩」「既に係長の貫禄」とか散々言われてはきたが、その割に色恋沙汰にはてんでご縁がない。まぁ今は別に寂しいとは思わないし、毎日働いてうまいメシが食えればそれだけで生きている価値がある。他人に振り回されてストレスを溜めることもない。そうと決まればさっさと残業を終えてあの店に行きたい。気合を入れてパソコンに向かう。 「…よし。おっさんがんばるぞ」 ×   ×   ×  また来てしまった。  まさか夜営業をやっているとは思わず、昼に来た店の暖簾をまたもや見つめている。この店の中毒性はやばい。思いついたらすぐに食べたくなる、初めて食べるのに何故か懐かしいと思えてしまう味を求めていた。ふと前方を見遣れば同じようなくたびれたサラリーマンが歩いてきていて、意外にも夜営業していることは知られているのだと少し誇らしくなる。しかし、店先の電気に照らされたその人の顔は…。 「あ」 「あ」  思わず異口同音に発せられた言葉。向かい側に立つ彼を見遣る。昼間に会ったばかりの顔を。 「…こんばんは?」 「おう。山ちゃんもか」 「はは…ええ、そうです。岩下さんも、ですよね」 「よせやい、岩ちゃんでいいよ。もう常連仲間なんだしさ」  にこやかに笑うその人の笑顔も、何故だか見るとホッとしてしまう。 「…どうだい、一杯」 「はい、そのつもりで来ました」  二人で同時に扉を潜ると、威勢のいいおばちゃんの声が聞こえた。
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