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第二話
「だからってふたりで泊まりがけだなんて」
「君の疑惑を払拭するには打って付けだろう」
「私はっ」
「知っている。私が聞こうとしなかっただけだ」
まるで知らない人のようで、ジュリエッタはそれ以上言い返すことができず窓の外に視線を向けた。
『まず、今まで通りに政務をこなしましょう』
ウィルソンの提案によって私たちが馬車に揺られたのは今朝のことだった。
領地の端の港町には隣国との貿易が盛んに執り行われていた。その新たな貿易相手からの招待を受けていたのだという。
屋敷内は昨晩の審議室でのことで持ちきりらしくひとまず外交を理由に逃げた方が得策であろうとのことであった。
それはそうだ。
私と彼が直接顔を合わせたのは数えられるほどでそれがまさか婚約破棄がなくなるとは思わなかっただろう。
だからこうして出掛けるのもそれこそ噂に尾鰭背鰭がつくのではないかしら。
それかそれが目的なのか。と向かいの様子をちらりと盗み見ると視線が合い慌ててそらした。
「なによ」
「べつに。君こそなにかあったのでは」
「べつにないわ」
以前はこうして共に出掛けることなどなかったため、ジュリエッタは少しばかり居心地の悪さを感じていた。
窓の外へと視線を逃がしていると樹々に覆われていた大地は荒野へと移り変わっていた。
行路を南へと切り大陸を渡った先に隣国最大級の貿易港があるという。
海が近づいているのか東から吹き込む風にはわずかに潮風が含まれ鼻腔を刺激している。
地平線の隅から見え始めた街の向こうには空を映したような深い色合いをした大海原が広がりジュリエッタは感嘆の声をあげた。
摺鉢状の漁港街を下った先に見え始めた海面は陽に照らされ反射しきらきらと光り輝き、その波間をいくつかの大小様々な船が行き交っていた。
「……綺麗」
内陸育ちのジュリエッタにとって海というものを見るのは初めてのことだった。
港から砂浜にかけて青い海面に白波をあげていた。
それはこの世界が球体で月と太陽とその他の惑星の引力によっておこる自然現象によると理解はしていたものの、知識として読むのと実際に目にするのとでは大いに違っていた。
目の前に広がるその雄大さにジュリエッタは思わず窓に手を伸ばしていた。
「目にするのは初めてだったか?」
「……ええ」
生前でさえ見たことはない。
婚約が決まり公妃教育の名目で叔父夫妻からは追い出され公爵邸へと移ってきたものの、貴族との関わりも止められ屋敷内で過ごすことを強いられていたジュリエッタは一日の主な時間を弟の捜索に充てていた。
そうだわ。
ウィルフレッドはどうしているかしら。
弟のウィルフレッドとは両親が死んでから引き離され、手を回したものの共に叔父夫妻に引き取られることはなく次に再会したのはデビュタントの席でのことだった。
『姉さん?』
逞しく育った姿に声変わりを経た低く落ち着いた声。
視線はあの頃よりも高い位置にあったものの私を姉さんと呼ぶのはひとりしかいない。
『……ウィル?』
駆け寄ってきた弟に強く抱き寄せられジュリエッタは戸惑ったものの暫しの再会に背中に手をまわした。
『……ずっと、ずっと探していた』
くぐもった吐息と震えを伴った声色にジュリエッタは込み上がる思いを堪えつとめて明るく振る舞った。
『……もう、まったく。あなたは本当に泣き虫ね』
覗き込んだ瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
頬を包み込んだ指で伝う涙を拭う。
『…ずっと、会いたかった』
騎士団に所属し身を建てていたことを知ったのは
『私もよ、ウィルフレッド。あなたが生きていてくれてどんなに嬉しいか……っ』
弟がどこかで生きていることでどんなことでも切り抜けてこれた。
悪評が影響しないようにと極力連絡は絶っていたけれど、ウィルフレッドは今どうしているだろう。
食事はとれているかしら。
「……これから数日は滞在することが決まっている。乗船することもあるだろう。好きなだけ目にできるはずだ」
どこか浮かれていた自身が気恥ずかしくなりジュリエッタは尻すぼみに相槌を打って窓へと身を乗り出していた姿勢を正した。
少なからず、あのように死を迎える状態にはならないとはいえその元凶がわからないのだからどうしようもないわけで、つまるところ彼と協力する他ないのかもしれない。
婚約が結ばれたとはいえアルバートと直接話す機会は少ない。
彼がこの婚約を結んだことさえ疑問でしかない。
それか相手が見つからず最終的に回ってきたのが私で、私の後見人である叔父夫婦が二つ返事で快諾したのだろう。
なんとも不運な話だ。
アルバートはこの婚約に際しどれほどのお金を投じたのだろう。
海に平行するように馬車が走っていくと青い海面に立ち塞がる形で黒い壁が車窓一面にあらわれやがて馬車は歩みを止めた。
「え……?」
先に降りたアルバートがタラップの横でこちらへと掌を向けていた。まるでエスコートするように。
それはこれまでで初めてのことだったのでジュリエッタは咄嗟に手を取ることができずに瞬いてから、それが正解であるようにと指先を伸ばした。
重ねた彼の掌は手袋越しでもわかるほどにごつごつとしていたアルバートの手は貴族としては不釣り合いともとれたが、鍛錬を重ねてきたアルバートの手はとても逞しくジュリエッタには心強く感じていた。
手を取り馬車を降りると風を受けた帽子の鍔がふわりと揺れて続けて潮風が髪を撫で上げていく。
帽子を抑え振り返った先の馬車の向こうには黒い壁が立ち塞がりずっと上まで続いていた。
背丈の数十倍はあろうかといった巨体には幾つかの煙突が突き刺さり煙を上げて空を厚く塗り潰し潮風に混じり燃料特有の鼻につくにおいがあたりを満たしている。
黒い壁、それは巨大な船だった。
船体の前方側面からは板が渡され人々が降りて来ており人の波ができ甲板からはわらわらと人々が流れ出ていた。
名前を呼ばれ続いて肘を外側に軽く曲げていたので手を添えてみる。
一体どういう風の吹き回しなのだろう。
船の燃料特有の鼻につくにおいの下ではトランクを抱えた旅行客の波が既にできており逸れてしまわぬようにとジュリエッタは添えた手の力を強めた。
大陸最大手の港町で八割を貿易二割を観光で賄い街は潤いを得ていた。
海を隔てた向かいの大陸から紡がれる品々は生活には欠かせないものとなり、国からの称号も与えられていた。
港近くでは降ろされた荷を運ぶ人々の活気で筋肉隆々の人々が行き交いこちらを繁々とうかがっていた。
「君がこうも人混みが苦手だとはな」
「ちがうわよ、別に私は……」
「案ずるな。君に攻撃の矛先を向けようものならこの街とは取引をやめる」
見上げたその横顔からは真意は読めなかったものの今のジュリエッタにとっては寄り添おうとするその言葉だけでじゅうぶんだった。
「やあ、旦那。本当に来るとは思わなかったぜ」
「その言い草はなんだ。まるで薄情者とでもいいたげだな」
豪快に声を上げて笑うその人は袖を肩まで捲り上げ逞しい筋骨隆々の肌は茶褐色に光輝やいていた。
「こんな遠くまですまねえな。こちらとしても……っと、連れがいたのか?」
「ジュリエッタ、彼は船乗りのロニー。ロニー、彼女は私の婚約者のジュリエッタ」
「これはまたえらい美人な嫁さんだな。こちらへ来るのを渋っていたのは彼女が理由か?」
「ああ。彼女の側を出来る限り離れたくはないからな」
「……ほう、これはこれは相当惚れ込んでいるらしいな。なあ嬢ちゃん、こいつをやめて俺にしねぇか? こんな仕事人間だとつまらないだろう?」
「人の妻を口説くな」
「まだ、婚約の段階だろう? 俺にもチャンスはある」
「あいにく、私は彼女との結婚を望んでいる」
アルバートに背後でに隠されジュリエッタは戸惑いをおぼえていた。
「ということはあの噂は嘘だったわけだな」
「弁解が必要か?」
「……いや、そのおっかない顔を見れば彼女がどういう存在かはよくわかる」
やけに低い声色のアルバートが発する空気に思わず手を伸ばした。
「アルバ──」
「ローンヴァルド!」
名前を呼ぼうとした声は別の女性の発した声に掻き消され、次の瞬間には何者かの手に耳を引っ張られたロニーが痛みを訴えて声を上げていた。
「まったく、なにやってんだい」
「いててててて!」
「あんたはいつまで油を売ってるつもりか知らないけど、今日がどういう日か忘れたわけじゃないだろうね? 人手が必要だって言ってるだろう」
「……べ、ベティ!」
涙さえ浮かべて耳を摩り痛みを和らげようとしていた。
「俺は領主ってガラじゃねえからよぉ。頼むよ、ベティ」
「まったくあんたって人は! 全部私に押し付けて」
大柄な男が、華奢な女性に詰めよられ小さくなる姿に思わず口元が緩んでいた。
「ち、ちがう、俺は公爵夫妻を出迎えに」
「……ああ?」
「じゃあ、こちらのふたりは……」
「ウィルヘルム公爵夫妻だ」
「馬鹿! それを最初に言いな!」
まるで大道芸の一種のようで、見慣れた光景なのか「またやってるよ」「うちのの領主様たちは」口元に笑みを乗せて作業の傍ら視線がふたりへ向けられていた。
「大変失礼をいたしました」
場を整えるように咳払いをしてからにこやかに笑みを浮かべる。
「これはこれは、遠いところをよくおいでくださいました」
がらりと態度を変えた女性がにこやかにたずねた。
「私は、この港町サウスポートの領主・ローンヴァルドの妻、エリザベス。お二方の滞在を心より歓迎いたします」
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