クラウチングスタート

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クラウチングスタート

「位置について──用意」  地面に両手を付き、片足を伸ばして爪先を立たせる。何時でも走り出せる姿勢を取り、その瞬間が訪れるのを待った。パン!と軽快なピストルの音の後に一斉スタートを切った選手たちが身を起こして足を運び、トラックを疾走して行く。 「いいぞ!その調子!」  春、高校2年生の(ひいらぎ)シンは初めての大舞台となるインターハイ出場を決めた。男子100mの他、400mリレーでアンカーを努めることになり、プレッシャーもあるがまたとない機会に恵まれたのだった。彼がゼロから有望な選手となるにはかなりの努力を要したが、ひとりでは成し得なかった快挙である。今まで鳴かず飛ばずだったシンを支えたのはチームメイトとコーチ、そして陸上部マネージャーの櫻井哉明(さくらいかなめ)だ。  トラックを回り終え、ゴールを切ったシンは真っ先に哉明の元へ小走りで向かう。タイムを確認し、ふたりで顔を見合わせハイタッチした。 「シン!また早くなったな?」 「あったりめーだろ!おまえの的確なアドバイスのおかげだ!」  シンと哉明はクラスが同じで、活発でお調子者のシンと冷静でやや天然な哉明はデコボココンビとしてクラスの男女共に人気が高かった。哉明の的確なマネジメントはシンにとって有難く、また哉明にとっても自分の仮説を次から次へと打ち破るシンは良き相棒であり、脅威の存在である。  地方大会や自治体が主催するハーフマラソンに参加し、めきめきと頭角を現し始めたシンは他校からもマークされている。不慮の事故や怪我、疲労による故障は最も警戒すべき事項だった。  陸上部は少数精鋭で、一人ないし二人の選手にひとりのマネージャーが寄り添い、二人三脚で数ある大会を乗り越えてきている。今のところ哉明がマネジメントしているのはシンだけで、これからもそれはシンの引退まで続くと思われた。今日もまた、準備運動に続き軽い走り込みを終えると筋トレに移るため、トレーニングルームに向かうシンの隣には哉明が寄り添う。 「今日のメニューはランニングマシンとスクワット、長めのストレッチだ。無理しないように、軽めでな」 「おう!ひとりだったらひたすら走り込んでたぜ…」  実際、シンが哉明と組む以前──1年生の春頃はひたすらマシンで走っていて、体力の無さが浮き彫りになっていた。シンがへとへとになって休んでいる所へ、フォームのチェックや基礎体力、体幹の測定などをしてみてはと提言したのが哉明である。この時2人が初めて会話したのも、トレーニングルームであった。 「…あのさ、シン」 「ん?」 「最近…俺、口(うるさ)くないか?少し、心配になって」 「そんなことねぇよ!オレはおまえがいて本当に助かってんだ…カナが不安になることなんかねぇって」 「そっか。…なら、良かった。メンタル面でもシンのサポートしたいから、不安があればいつでも言ってくれ」 「大丈夫だって。おまえに匙投げられたら、オレはもう伸びない気がする…だからさ、」  ランニングマシンの走行面に足を乗せ、シンがひときわにこやかに笑う。 「いつだって隣にいろよな!」 「…うん!」  一通りの予定をこなしている中で、哉明が何故選手ではなくマネージャーになったのかとシンはふと考えた。気にすることも聞いたことも無かったのだが、彼の身体はマネージャーにするには勿体ないくらいランナーに向いている。しかし彼がマネージャーを降りたら自分が困るため、あえて聞かなかったのだ。 「どうした、シン」 「えっ?ああ、ちょっと考え事してて…」 「スピード上げるって言ったの、聞こえなかったのか?」 「……うん、ごめん」 「ボーッとしてたら転ぶぞ。…今日はこれで終わりだな」 「えっ!」 「注意力散漫なおまえにトレーニング続けさせる訳にはいかない。今日はストレッチして、上がれ」  哉明の言うことは正論で、シンが反論する余地は無かった。項垂れる様子のシンの肩を叩き、哉明が小さく吹き出す。 「…なんちゃって」 「へっ?」 「なんか気になることあんだろ。この後サイゼで作戦会議だ」 「!」 「そんな顔すんなよ。お詫びにカロリー計算してやるから…その代わり食べ過ぎ注意な!」 「おっまえ…!本当にいい奴だな…」  シンが哉明の肩に腕を回し、ぎゅうと引き寄せる。哉明は苦笑いしながら、「ひとまずストレッチしようぜ」と声を掛けた。    
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