第一章 真珠の娘

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第一章 真珠の娘

純蘭(じゅんらん)、ぼくのお嫁さんになって!」  幼馴染の延徳(えんとく)に求婚されたのは、潘 純蘭(はん じゅんらん)が七歳の時だった。  純蘭が「延徳」と呼ぶ少年は、村のはずれにある花畑で出会った男の子だ。花が好きな純蘭が花摘みをしたり、花かんむりを作って遊んでいたら、見知らぬ少年が声をかけてきた。少年は自らを「延徳」とだけ名乗った。少し離れた場所で暮らしているのだという。延徳と仲良くなった純蘭は、よく遊ぶようになった。延徳はたくさんの花の首飾りを純蘭に作ってくれた。純蘭もお礼にと、花かんむりを延徳に作ってあげた。  いつも通り二人だけで花摘みをしていたら、「あ、あのね」と切り出した延徳が純蘭の手を取り、頬を赤く染めながら言ったのだ。 「純蘭、ぼくのお嫁さんになって!」  突然のことだったので、純蘭は意味をすぐに理解できなかった。首をかしげ、きょとんとした顔をしている。 「お嫁さん……? わたしが延徳のお嫁さんになるの?」 「ご、ごめんね、驚かせて。ぼく、大きくなったら純蘭をお嫁さんにしたいんだ。ダメかな……?」  遊んでいる最中の求婚を恥じたのか、延徳は顔を真っ赤にしながら純蘭の顔色をうかがっている。 「お嫁さんって、きれいな赤い衣を着て、赤い輿(こし)に乗るのよね。みんなにお祝いされて、旦那様の大切な花嫁になるって、お母様から聞いたわ。いつかわたしが、延徳の花嫁になるってこと?」 「そうだよ、純蘭。いつか君をぼくの大切な花嫁にしたいんだ。純蘭とずっと一緒にいたいから」  延徳の求婚の意味をようやく理解した純蘭は目を輝かせた。 「うれしい……延徳の大切な花嫁になれたら、すごくうれしいわ」  延徳とずっと一緒にいられる。 その言葉を聞いた途端、純蘭の小さな胸が喜びであふれそうになった。延徳と共に過ごす時間が、純蘭は何より大切だったからだ。 体中が幸福感で満たされていく。こんなにも嬉しいことが、この世にあるなんて。 「わたし、延徳のことが大好きだもの……」  延徳を恋しく思う気持ちと感謝で胸がいっぱいになった瞬間。  純蘭の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。それは歓喜の涙だった。頬を濡らす涙は、純蘭の顔から地に落ちていくはずだったが、コツンという音と共に地に落ちたのは一粒の真珠だった。光り輝く、金色の真珠。少女の目から流れ落ちるものではない。普通ならば。 「これは……?」  すぐに異変に気づいたのは延徳だった。愛しい純蘭の大きな目から流れる涙が、光り輝く真珠となって次々にこぼれ落ちているのだ。 「純蘭、君は異能の力をもっていたの?」 「いのう? 何のこと?」  涙を手で拭おうとして、純蘭の白い指先に真珠がコンとあたり、地に落ちていった。 「え……?」  不思議に思った純蘭は、地面を見つめた。自分の周囲に転がっている金色の真珠。白い真珠は母親の花嫁道具で見たことがあったが、金色の真珠は見たことがない。 「金の真珠……? いくつも落ちてる。なぜなの?」 「純蘭が流した涙だよ。君の目から落ちた涙が、金色の真珠になったんだ」  驚いた純蘭は目を丸くして、延徳を見つめた。 「うそでしょ? わたし、知らない。真珠なんて流したことない」  現実の話とは思えなかったが、延徳が嘘を言う人間ではないことを純蘭はよく知っている。 「今まで一度も真珠の涙を流したことがなかったの?」 「ない、ないわ。どうしよう、延徳。わたしの体、おかしくなっちゃったの?」  地面に転がっている光り輝く金色の真珠を見つめながら、純蘭の顔は徐々に青ざめていく。大好きな延徳から求婚されて嬉しくてたまらなかったはずなのに、なぜこんなことになってしまったのだろう。純蘭には少しも理解できなかった。 「どうしよう。怖いわ、延徳」  天にも昇る気持ちだった純蘭は、自分の目から真珠の涙が流れ落ちたという現実を受け入れることができなかった。 不安と恐怖で体が震え、ぽろぽろと涙を流す。純蘭の目から落ちた涙は、今度は白い真珠となって地面に転がっていく。 「純蘭、大丈夫だよ。落ち着いて!」  震えながら真珠の涙を流す少女を落ち着かせようと、延徳は咄嗟に純蘭を優しく抱きしめた。 「延徳……」  大好きな人のぬくもりと優しさを感じ、純蘭の涙がやっと止まった。 「君は真珠の涙を流すという、異能の力をもつ娘だったんだよ。異能の力は神様に選ばれし力だと言われてるから心配しないで」 「体がおかしくなったわけじゃないの?」 「ちがうよ、病気でもない」 「そうなのね、良かった」  延徳が言うのなら、きっと間違いはない。純蘭は心から安堵した。  純蘭の体の震えが止まったのを確認した延徳は純蘭から手を離し、地面に転がる金色の真珠を一粒拾った。真剣な眼差しで金色の真珠を見つめながら、延徳は何事か考えこんでいる。 「金の真珠は仁国の宝だ。それでは純蘭は……」  金色の真珠を眺め、延徳は純蘭に聞こえないようにささやいた。 「延徳? なんて言ったの?」  純蘭が聞くと、延徳は顔をあげ、純蘭の両の手をそっと掴んだ。 「君は神に選ばれた異能の力をもつ娘。純蘭を守れるように、ぼくはうんと強くなる。だからぼくを信じて待っていて」  突然の求婚から信じられない事態となったが、延徳の気持ちは少しも変わらなかった。愛しい純蘭を守るため、強い男になると宣言したのだ。 「うれしいわ、延徳。わたし、あなたを信じて待ってる」 「うん。純蘭を必ず迎えにいく。そしたら君はぼくの大切な花嫁だ。明日またここで会おう。婚約の証しに、僕の母様の形見を君にあげるから」 「形見? 延徳のお母様はこの世にいらっしゃらないの?」 「うん。ぼくが幼いのときに天に召された。そのとき母様から赤い玉がついた佩玉(はいぎょく)を形見にと渡された。それを君にあげる」 「そんな大切なもの、いただいていいの?」 「婚約の証しだもの。受け取ってくれるかい? 純蘭」 「ええ、もちろんよ。うれしい……」 「じゃあ明日またここで会おうね、純蘭」 「待ってるわ、延徳」  大好きな延徳に求婚された大切な日。  それは純蘭が異能の力に覚醒した日でもあった。  共に生きると誓い、婚姻を約束した幼い純蘭と延徳。 だがしかし、延徳はその後二度と純蘭の前に姿を現すことはなかった。明日またここで会おうと言ったのに、延徳は次の日花畑に来なかったのだ。  延徳から求婚された花畑で、純蘭は何日も延徳が来るのを待った。雨の日も雪の日も、刺すような強い日差しのときも、純蘭は延徳が来るのを待った。今日は来る、きっと明日こそは来ると信じながら。 「明日は延徳に会えますように。どうか神様お願いいたします。延徳に会えるなら、どんなことでも耐えてみせますから」 延徳を信じる思いはやがて祈りへと変わり、毎夜寝る前に天の神に祈りを捧げた。 どれだけ神に祈りを捧げても、延徳は花畑に姿を現すことはなく、純蘭に会いにこなかった。何日も、何年も、純蘭は恋しい延徳を待ち続けた。 「延徳、明日もここで会おうって言ったわよね。婚約の証しにお母様の形見をくださるって。なぜ来てくれないの? 延徳……」  はらはらと悲しみの涙が純蘭の目から流れ落ちる。涙は白い真珠となり、咲き乱れる花へと吸い込まれていく。雨が降ってきたが、純蘭は花畑で立ちつくしたままだった。年頃の美しい娘へと成長していた純蘭の顔と体を、雨がしっとりと濡らしていく。 「もう会えないのね、延徳……」  雨で冷え切った体をさすり、純蘭はようやく現実を受け入れた。  とっくに気づいていた。初恋の人である延徳は、純蘭に嘘をついていたのだと。けれども信じたくなかった。異能の力に目覚めた純蘭を必ず守り、大切な花嫁として迎えにいくといった延徳の言葉が偽りだなんて考えたくなかったのだ。 「もう、あきらめないといけないわよね……。大人になるのよ、純蘭」  延徳が花畑に来ることを待ち続けて九年。純蘭は十六歳の娘へと成長していた。 「私はもうここには来ないわ、延徳。さようなら……」  今も延徳が嘘をついていたとは、どうしても思えない。だが待ち続けることにも疲れてしまった。  花畑での思い出を振り切るように、純蘭は顔を天に向けた。雨が止み、温かな日の光が純蘭の顔と体を優しく照らす。 「天よ。私が神様に選んでいただいた娘だというのならば。その御心に従いましょう」  真珠の涙を流すという純蘭の異能の力は、噂となってひろがってゆき、九年後に都の城におわす皇帝にも伝えられてしまった。 『神に選ばれし真珠の娘を、朕の元へ連れて参れ。後宮に入れるのだ。朕の妃のひとりとする』  皇帝の命令に、小さな村の娘でしかない純蘭が断れるはずもなかった。嫌だと言えば、父も母も、まだ幼い弟たちまでも罪人とされてしまうかもしれない。延徳の言葉を信じ、九年経った今も花畑で待ち続けたいのが本心ではあったが、家族を守るために決断しなくてはならなかった。 「思い出をありがとう、延徳。私は後宮へ行くわ。皇帝陛下の花嫁になるのよ……」  純蘭は皇帝の妃のひとりとして、後宮入りすることを自ら決めた。  初恋の延徳への思いを心の奥底に封印した純蘭は、美しい花畑から去っていった。純蘭の真珠の涙を受け止めた花々は、太陽の光を受け、きらきらと輝いていた。
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