霊感と存続力

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霊感と存続力

8bba5afb-b1ae-4583-b0a6-b0ffc94b6f7d 「霊感」という言葉の意味は大きく誤解されている。 オカルティズム的な意味での霊感は 「現象には再現作用がある」 という真理と大きく結びついている。 誰にも導いてもらえずに自力で 「エーテル体の死と再生」 を完遂させなければならない孤立無縁の状況では 秘儀参入者は 「過去に無事にエーテル体の死と再生を完遂した人々がいた」 という過去の出来事に対して 「現象の再現作用」 が起こるように仕向けなければならない。 それこそ必死に。 そうした状況では秘儀参入者は 「何をどうすれば良いのか」 全く何も知識を持たず、霊的に盲目だ。 そして盲目だからこそ無我夢中で光を求める。 足掻いて活路を求める。 そもそも 「自分の身に何が起きているのか?」 すら初めは分かっていない。 理解できている事は 「他の人達には当たり前に与えられているものが私には当たり前には与えられない事がある」 という不自然なくらいの不運と 「私は誰にも愛されていない。どうでもいい存在だと侮られ蔑まれている」 という不利な社会的位置付けについてだけ。 罪人でも何でもない。 他人から妬まれるような良い目を味わってきた覚えもない。 誰からも嫉妬されず羨望されずにきた。 奪われるような価値のある物も持たずにきた。 「…なのに不条理にも、こんな目に遭っている…」 一体何が起きているのだろう。 一体何に巻き込まれているのだろう。 「私は知りたい。知らなければならない」 そうして真実を渇望する事でいつしか 「私はエーテル体の死と再生を体験しているのだ」 と理解できるようになる。 エーテル体の死と再生を完遂するのに必要な言動・振る舞い・自己制限。 それらを直感的に理解し、理解した通りに実行する。 そしてつつがなくエーテル体の死と再生を完遂した時には 「私には師はいない。あの心の地獄から誰も助けてくれなかった」 「師と呼ぶべき存在が居るなら、過去に自力でエーテル体の死と再生を完遂させた故人だ」 「現象の再現作用によって私は辛うじて助けられた」 という事を理解できている。 それらの理解こそが霊感により生じている。 真っ暗闇を手探りで進む中 「進むべき道」 を魂の直感が訴えかけてくる。 その直感が正しいのか誤りなのかも識別できるようになる。 白蛇は神様の遣いだと言う伝承を持つ文化圏は 【地球世界】にもあったし 【金令世界】にもあるが… 蛇が「慣性」の象徴であり 白蛇が「通過儀礼完遂の再現作用」の象徴である事を思えば そうした伝承も間違いとは言えない。 邪まさも雑多さも混じらない純粋な現象再現作用。 それに導かれて 我知らず偉大な故人の歩んだ道を踏襲して 迷路から抜け出す。 そうした体験を経た者達が 「霊感を持つ者」であり 「不動の星に導かれる者」である。 通俗的オカルティズムでは 「幽霊を見る=霊感がある」 という認識が一般的だが… それは本当に致命的に間違っているのだ。 幽霊の姿は「見える」ものではなく「見させられる」もの。 脳が乗っ取られ 視覚が乗っ取られ 遠隔操作ウィルスにやられたネット端末さながらに 危険な状態にある。 そこに特別な能力などが有るという事はない。 聖は正であり 正の対極は狂である。 悪でもなく 邪でもない。 脳をやられてる狂人が幻覚を見るのを根拠にして 「霊感がある」 と言い そうした妄言を盲信する人達が量産される。 そんな 「事実とは真逆の情報を事実だと思い込んでいる集団」 が生み出す思考や文化や知識。 それらは根無し草のように時と共に滅んでいく。 【世界】には慣性が満ちていて現象の再現作用はランダムに働く。 「善き現象には慣性が働き、悪しき現象には慣性が働かぬように」 などといった制御が為されている訳ではない。 人間は 「善行を行いたい衝動を感じて善行を行う」 「悪行を行いたい衝動を感じて悪行を行う」 という現象の再現作用に巻き込まれた言動を無自覚にとっている。 それを 「善行を行いたい衝動を感じて善行を行う」 「悪行を行いたい衝動を感じたが悪行を行わない」 と自制をする事で 「善き現象には慣性が働き、悪しき現象には慣性が働かぬように」 といった制御が少しだけ為された事になる。 「聖人は邪悪な事など考えないものだ」 と思う人達は 「世の中には慣性作用があり現象の再現作用がある」 「世の中には過去に行われた善行や悪行が『踏襲せよ』とばかりに人の心を惑わしている」 といった社会環境を理解できていない。 「ゾッとするような悪辣で残虐な嗜虐心に取り憑かれて、他人を痛ぶりたい衝動、憎い相手を殺したい衝動に駆られる」 という体験が聖人に降りかかり 「成る程。こんな悪心が存在し、こんな悪心を踏襲して残虐な重犯罪を犯す者達が湧くのか」 とばかりに 「悪心を客体化して、悪心から来る衝動には従わず、悪心と一体化している霊を祓う」 から、悪しき現象の再現作用に多少の歯止めが掛かる。 それが聖人が仮初めに邪悪さに取り憑かれて邪悪な事を考えてみる目的である。 音が遠くまで届くのは空気のバネ作用が音波を次へ次へと盥回しにするからだ。 世の中には、音波を増幅させる物質も有れば、音波を吸収して鎮める物質もある。 聖人と呼ばれるべき人々は 善き現象に対しては増幅作用をもたらし 悪しき現象に対しては吸収鎮静作用をもたらす人間だと思って良い。 我々善良な人間は聖人の上面を真似るのではなく 「自分自身の存在性の作用を聖人の存在性の作用に近づける努力をするべき」 なのである。 上面だけの八方美人的人当たりの良さや偽善だけで 「聖人か否か」 を判断する人達は 「存在性の作用」 という重大な点を余りにも軽視し過ぎている。 「この人が居るだけで」 「この動物が居るだけで」 「この物質が在るだけで」 ただそこに在るだけで何かしらの善き作用をもたらしている存在が在る。 逆に 「ただ存在するだけで善き現象を捻じ曲げて悪しき現象へと改悪する」 存在性の作用を持つ者達いる。 存在するだけで悪しき現象を増幅する者達…。 そういった者達の存在性は呪物である。 呪物というものはーー 本来なら非生命、無機物などの存在性の作用を人工的に改悪して作られるものだが… 下等動物が、低次元な人間が、生き物でありながら無自覚なまま呪物化する事がある。 「魔物」という呼び名はそういった存在を言い表わすものであるべきだと個人的には思っている。 (現在の【金令世界】での「魔物」は遺伝子遊びで人工的に創造されたキメラが人間の管理下を離れて野生化・繁殖したものを指している) 錬金術は価値の低い物を価値の高い物へ変える術だが… 猿真似の錬金術もどきだと価値の低い物は無価値もしくは有害な物へ変えられてしまう。 我々善良な人間は 「呪物化している人達や、それを生み出した猿真似エセ錬金術師達によって平和を乱され苦しめられる」 ように決まっている。 まるで変える事が禁じられているシナリオのように。 邪悪な人達から苦しめられる事で被害者の側に 「アイツらの事など絶対理解したくない、アイツらと同じ道を踏襲したくない」 と忌避感が起こる。 それによって 「混じり合わない排斥因子」 が善良な人達と邪悪な人達との間に培われる。 そうした 「邪悪さを排斥する因子」 が社会適正化にとって 「社会内に一定量生み出される必要がある」 かのように… 善良な人達が邪悪な人達から苦しめられる事態は 何故か絶対になくならないのである。 「悪を許したくない、悪と混じり合いたくない」 という排斥因子。 それが肉体や精神の免疫機能や耐性とも関連している。 寄生虫のような乗っ取り侵略者への激しい嫌悪感。 被害者を詐称する加害者への激しい嫌悪感。 それらが 「病原を排除しようとする健全な肉体と精神の反応」 の維持に必要な排斥力の源でもあるので… 嫌悪すべき対象への嫌悪感を否定するべきではない。 人間は 「致命的ではない病気や怪我や不幸を体験しておく」 事で 「生きる事に必要な存続力が知らぬ間に鍛えられる」 という面がある。 ゆえに苦しみはなくならない。 人生から全ての苦しみが取り除かれてしまうと存続力の更新が起きなくなる。 かと言って致命的な苦しみは鍛えるのではなく壊してしまう。 あくまでも 「致命的ではない苦しみが人生の必然」 なのである。 生きる事に纏わりつく生物の(カルマ)のように…。
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