共感性

1/1
前へ
/1ページ
次へ

共感性

「共感性」     元来、共感性は深ければ深いほどにいいと思われがちであるが、    果たしてそれは事実だろうかとふと思った。    何かを見て共感する、それは作中の物語や題材という全体的なものから、    主人公や、はたまたはその他の人、言葉一つなことだってある。    それには、自分に似ているという主観的な観点がものを言っている事は    事実であろう。自分の経験に似ているや性格に似ている、雰囲気が似ている。    そうした類のものが共感を感じさせる。    そして仮にその説を確証づけるならばこそ、    果たしてそれは良いものかという疑問が出た。     例えば誰でも泣ける程に美しいとされる作品。    それに共感することは、とても良いことにも思えるが、    太宰治の人間失格を読み、共感したと言えてしまったなら    それはクズの証明であるような感じもするのだ。        されど私の場合、そのどちらにも感動し共感してしまった。    コレはあくまで自己保身的な考えかもしれないが、    大衆的に受けるとされるものに感動できるのも、    人間失格のような人の忌まわしきものを忠実に描いたもの感動できるのも    痛みを知らなければ、こんな風に思う事はなかったのではないだろうか。    私は何か物語にて感動的場面や、傷心的場面によく痛いなと共鳴する。    可哀想にでも、大変だよねでもなく、痛いな。    恐らくその言葉が出るのは、その作品を目にし、同じように体験した痛みを    間接的に感じているからだと思う。    でなければ痛いという言葉は出ないのではないだろうか。    感受性や共感性、それらは時に今まで自分がどう生きてきたかを間接的に表す。    それ故、私が人間失格に同じ痛みを少なからず感じたことは、    私自身が自分に対し、忌まわしいと感じる所や保身的部分が多くあるからだろう    そして仮にその説が正しいとせよ、    私は太宰治の人間失格に感動できてよかったと思う。    そうでなければ、私が人間をする意味はこの世界にまるでないもの。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加