衝動VS恐怖

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 私が最後の仕事を辞めてから、すでに数か月が経っていた。  現在はもちろん、無職だ。  そんな私には知り合いも家族もいない。  とはいえ、私はそれに何とも思っていなかった。  幸いなことに、私は金銭には困っていなかった。  全ては金次第だ。  私はそう思い、不安から逃れて一時的な安堵を得ていた。  私は、閑静な住宅地にあるマンションに住んでいた。  五階建ての建物で、私の部屋は四階にあった。  周囲は静かな住宅地だ。  駐車場も完備されており、この地域の相場と比べるとかなり割安な物件だった。  内装も新しく、間取りも使いやすい。  この物件に不満などまったくなかった。  夜。  夜空は曇っていて星も月も見えず、薄暗い。  マンションの廊下。  私は自分の部屋の前にある、その廊下に立っていた。  廊下の天井に設置された、薄暗い蛍光灯。  その薄暗い灯だけが頼りの中。  私は、自分の部屋の玄関に向かい合い、施錠を確認する。  冷たい金属の感触が指先に伝わる。 「これが最後だ。」  独り言を言って、私は自分に言い聞かせた。  もう何度目かの確認だった。  深呼吸をし、鍵穴に鍵を差し込む。  ゆっくりと回す。  カチリという小さな音が響く。  施錠完了。  頭では分かっている。  全てが完璧だと。  それでも、心の奥底では気づいていた。  また、私は玄関へ戻ってくるだろうと。  完全に不安は消えない。  むしろ、確認するたびに不安が心の奥底へと押し込められていく気がした。 「あと一回だけ」  そう呟きながら、再び鍵に手をかける。  確認を繰り返すたびに、表面的で一時的な安心感を得る。  鍵穴に差し込み、回す。  カチリ。開ける。  カチリ。閉める。  この動作を何度も繰り返す。  しかし、その偽りの安堵は長くは続かない。  すぐに押し込められた不安が襲ってくる。  この習慣がいつ頃から始まったのか、もう覚えていない。  ただ、毎日繰り返される儀式のように、施錠の確認は私の生活の一部となっていた。  外出する度に、寝る前に。  私は執拗に玄関の扉の施錠を確認する。  それが当たり前になっていた。  今日は珍しく買い忘れたものがあった。  トイレットペーパーだ。  これがないとトイレに行くことができない。  早急に購入しなければならない。  この夜の時間に空いている店舗。  コンビニ。  私は、近くのコンビニに買い物へ行かなければならなかった。  そのためには、どうしても玄関の鍵を閉めなくてはならない。  私は再び鍵を確認する。  カチリ。鍵を開ける。  カチリ。鍵を閉める。  カチリ。カチリ。……。  カチリ。……。  ……。  もはや何度かも分からない施錠確認を行った。  それによって疲れ果てた私は、ようやく玄関を後にした。  エレベータに乗り込み、ボタンを押す。  扉が閉まり、一階へ向けて下降し始めた。  静かな音を立てて動くエレベータ。  その時、不安が再び襲ってきた。 (もう一度、施錠を確認しなければならない。)  その思考が私を支配する。  私は憑りつかれたかのように、ボタンを押した。  もちろん押すボタンは、四階だ。  一階に着いたら、私は再びボタンを連打する。  そして、四階へと再び上がるエレベータ。  心臓の鼓動が早くなる。 (あと一度。すぐに確認して、また降りればいい)  私は、自分に言い聞かせるようにそう思い込んだ。  四階に到着し、エレベータのドアが開いた。  私はエレベータを降り、自分の部屋へと戻ろうとする。  その時だった。  4階の廊下に人がいた。  季節外れの白い服を着た女性が立っている。  その女性の長い黒髪は、顔全体を覆っていた。  顔は見えない。  しかし、私は。  明らかにこちらを見ている、と思った。  女性は動かない。  ただじっと私を見つめている。  薄暗い廊下に、その白い姿がぼんやりと浮かび上がっているようだった。  明らかに不自然で異様だった。  心霊現象。  幽霊。悪霊。  その類を連想させる。  私は、その場に立ち尽くした。  ゾクリっとしたものを感じる。  冷や汗が背中を伝っていた。  逃げ出したい。  私はそう感じた。  しかし、施錠の確認がしたい、という衝動は消えない。  玄関の施錠を確認するためには、廊下を通過しなければならない。  幽霊のような女性の立っている廊下。  つまり、幽霊のような女性のそばを通らなければならない。  施錠を確認したいが、幽霊からは逃げ出したい。  私の中で、二つの矛盾した衝動が激しくせめぎ合い、私の思考をかく乱する。 (……逃げる前に、玄関の施錠を確認しなければならない。)  混乱した私は、そのように結論づけた。  そして私は玄関に向かうために幽霊に向かって歩き出すことへ決めた。  逃げるべきだと分かっている。  でも、鍵の確認をしなければ、この場から逃げられない。  それが私の頭の中で繰り返し響く。  恐怖という感情が麻痺したかのように、私は幽霊に向かって進みだした。  廊下にいる幽霊へ私は近づいていく。  私の持っている恐怖のみならず、すべての感情、思考が機能を停止したかのようだった。  全てを押し殺して、施錠の確認のためだけに、私は行動をする。 「大丈夫、大丈夫」  気がつけば私は震える声で、ぶつぶつと自分に言い聞かせていた。  しかし、その言葉とは裏腹に、私の心の底にある生存本能が、その場からの逃走を叫んでいた。  幽霊は目と鼻の先にいる。  私は俯いて、小走りのように廊下を駆け抜ける。  目を伏せたまま、足音を立てないように気をつけながら進む。  通り過ぎる瞬間、冷たい空気が全身を包み込んだような気がした。  そのまま、私は逃げるように玄関へと急ぐ。  ろくに確認をしないまま、玄関に到着した。  縺れてうまく動かない手を押し当てるように、玄関のドアノブに手をかける。  鍵を差し込み、開けては閉める。  カチリ、カチリ。  鍵が回る感覚と音に、わずかな安堵を覚えた。 「あと一回だけ」  思わず私は、そう呟いた。  最後にもう一度、念入りに確認する。  鍵を回す。  不安が心の奥底へと押し込められる。  胸の中に安心感が広がった。  私は視線を玄関の鍵から離して、周囲を確認した。   驚いたことに、白い服の女性はいなくなっていた。  いつの間に消えていたのか。  薄暗い廊下には誰もいない。  私は大きく息を吐き出した。  不安の元が消えた安心感。そして、安堵。  続いて、疲労感が押し寄せた。  しかし、心の奥では分かっていた。  これから女性の姿を、あと一回は見ることになるかもしれないと。  私は廊下を進み、再びエレベータに乗り込んだ。  今度こそコンビニへ向かうはずだ。  エレベータのドアが閉まる直前、チラッと廊下が見えた。  そこに白い、何かがいた。  エレベータは、すでに1階へ向かっていた。  しかし、私の胸の底に押し込められていた不安が再び頭を擡げてくる。 「あと一回だけ」  私は、独り言を言って、エレベータのボタンを押した。 
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