キリンの笑顔

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 朝、六時半に起床。七時四十分にアパートの戸に鍵をかけ、バス停まで歩く。時間通りにバスは停留所に止まり、私を拾って駅へと向かう。  地方から東京に出てきて驚いたことは、人の多さだ。  勤めて間もない頃は人ごみに酔った。会社に行くだけでひと苦労。三年経った今でも通勤は苦痛だが、上京直後よりはましになった。  慣れよりも、疲れを感じる神経が麻痺したのだと思う。  今日も知らない人に囲まれ、群れの移動に押しやられ、人造石の敷き詰められた通路に靴底をすらせた。  決まった枠にはめられた毎日は、何ひとつたがえることなく流れていく。今朝も、いつもの光景の中を通りすぎるだけ。そのはずだった。  あの人を目にするまで。  引っかかりを覚えた。あわただしさのみが漂うことを許されているはずの駅の構内。そこに、ゆるやかな空気を感じた。  原因はすぐにわかった。天井を支える丸く太い柱のわきに、人がいる。おじさんだ。それもごく普通の。  折り畳みの小さなイスに姿勢よく座り、行き交う人を見るともなしに眺めている。  おじさんの手にしたものが、強烈にのんびりとした膜を作り出し、私を包みこもうとする。  お酒。ビールかな、あの缶のデザインは。  タンクトップの金髪の女性が、腕を組んで足を止め、もの珍しげに青い瞳で見つめている。通勤中の大勢もおじさんには興味があるようだが、わざわざ歩みを止める人はいない。滞りを微塵も生まぬ行進へと私も加わり、おじさんの作る膜から足を遠ざけた。
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