キリンの笑顔

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 今朝の構内には、不穏な気配が充満していた。動くことをやめないはずの群れが立ち止まり、分厚い人垣を作っている。  あそこはおじさんがいた場所だ。何かあったのだろうか。  私も輪に加わり、目を凝らした。こういう時だけだ。背が高くてよかったと思うのは。  目に飛びこんだのは『POLICE』の文字。均一な太さで背中を飾る白い字に身を固くした。  が、警官の向こうにある、おじさんのおだやかな顔を見て力はぬけた。  見慣れた制帽の下に、険しい表情を作っているのは駅員だ。  人の輪の中心で、のんびりと座るおじさんに、いかめしい顔をした二人が何かを伝えている。おじさんは動じることなく、静かに背筋を伸ばしている。 「あなたね、これだけの人があなたのことで集まってるんだから、なんとか言ったらどうなんだ」  警官の高飛車な声が不快だった。 「何をしているんですか、朝からここで」  いくぶんやわらかな口ぶりで駅員が問い詰める。  黙ってまばたきをくり返していたおじさんは、わずかにあごを引き、視線を下げた。  このまま何も言わないで、あるいは「すみません」と形だけの詫びをこぼして、この人は立ち去るのだろう。  そう思った時、おじさんはきっぱりと顔を上げ、口を開いた。 「じつは、リストラにあいましてね」  最初のひと言で、観衆の作るざわめきが床に落ちた。おじさんの静かな、だけどよく通る声が私に届く。 「再就職も上手くいかない。妻と二人で話し合った結果、ささやかな蓄えに頼って細々と暮らしていく覚悟をしたのです。平凡なサラリーマンでした。地味で目立たず。胸を張って、人さまの役に立ったと誇れる業績もない。それでもね、仕事を失ったことを、なかなか受け入れられないんです。だからこうやって、暑い中、会社にかよった在りし日の自分をふり返って、気持ちを整理しているのです。ご迷惑でしたかな」 「お気持ちは察しますが、通勤で皆が一生懸命なのに、一人でのんびりしている姿を見るのは腹立たしい、という苦情もきてるんです。もうやめてください」  おじさんを立ち退かせるチャンスとみたのか、駅員の口調は言葉づらだけが丁寧で、言いざまはひどく強制的だった。  駅でビール飲むぐらいいいじゃない。こんなに大ごとにしなくたって。  苦いものが口もとに集まる。唇の先が熱を持ってむずむずする。 「やめなくていいよ」  自分が口走ってしまったのかと思った。違う。私の声は頬の内側にとどまっている。  そのあとにも、「いいじゃないか、それぐらい」「大ゲサすぎるんだよ」と、私が胸の内に抑えこんでいたセリフをそっくりそのまま、集まった人たちが言葉にしていた。  群れの中から、やたら体つきのいい男性が進み出た。 「俺はな、昨日このおっさんが朝っぱらから美味そうにビールを飲んでるのを見て、パーッと憂さが晴れてな、今日も一日がんばろうって気になったんだ」  そうだそうだ。意見を持たない歯車だと思っていた人たちが声を上げる。 「酔っぱらって、ホームから転落しても困りますし」  反撃を予想しなかった駅員の言い分は、苦しかった。 「この人、飲み終わったらバスで帰ってますよ」  近くの売店のお姉さんが、こじつけの理由をぶち壊す。 「でもマナーは守ってもらわないと」  駅で酒飲んじゃいけないマナーなんてあんのかよ。  群衆の声をまとめると、こういうことだった。  タンクトップの金髪女性が見せつけるように胸を張り、駅員と警官の前を素通りする。二人のことは完璧無視でおじさんに近寄る。 「日本人もずいぶん自由になったものだと、昨日も興味深く拝見していました。ここに集まった皆さんも、あなたみたいになりたいのでしょうね」  とても流暢な日本語だった。キュッと口もとを上げてシャープに笑い、洗練されたウインクを飛ばす。  おじさんがぐっぐっとのどを動かし、ビールを腹に落とす。からになった缶を小刻みにふり、不器用なウインク。そしてそのあと、目尻に深いしわを刻む大きな笑み。良い顔だ。 「ほどほどにしてくださいよ」  異物の排除にしくじった二人は、負け惜しみのひと言を置いて立ち去り、群れはばらけた。  私も会社へと向かう。前へ前へと足が進む。笑顔って、こんなにも人の気持ちを軽くするんだ。
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