キリンの笑顔

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 パソコンが起動するまでの間に、お茶をいっぱい淹れようと思ったのが間違いだった。  給湯室には先客がいた。この人がいるとわかっていれば、お茶なんて我慢したのに。お局さまだ。  寄らずに素通りも考えたが、手にしたコップが「あきらめろ」と言う。勘付かれないよう、かすかに眉をよせ、給湯器に手を伸ばした。  隣から、聞きたくもない声がする。 「またそんな暗い口紅ぬって」  ほっといてください、と暗い唇の奥でだけつぶやく。 「昨日はとんだ言いがかりだったね」 「なんのことですか」 「バカ課長の説教よ。自分が小さいからって、あなたにナンクセつけて。ひがみったらしいたらありゃしない」  どう返事をしていいのやら。ふさわしい表情も思いつかない私にはおかまいなしで、お局さまは勝手に口を動かした。 「あのバカ、どうしていちいち立ち上がって説教するか知ってる?」 「いえ」  お局さまの手のひらが、頭のてっぺんをくるくるとなでまわした。 「相当うすくなってる。上手く隠してるけど、あたしにはわかる。なんせ夫がそうだからね」  幼稚園から高校にいたるまで、前にならぶ女子の頭を見おろし続けたことを思い出した。そういえば、課長のつむじを見たことはない。 「座ってると、ハゲを見つめられてるんじゃないかって、気が気がじゃないんだろうね。へっ、器のちっさいやつ」  あざけりのつぶやきは辛辣だった。 「あなたが呼ばれた時はワクワクする」  人の不幸を楽しむとは、イヤな人だ。 「頭を見られたくないからって、必死でそっくり返ってバカみたい。今度さ、思い切りのぞきこんでやってよ。きっとあとずさりして逃げるから。スーパーモデルにビビるおっさんの図をあたしに見せてよ」 「スーパーモデルってなんですか?」 「あら、あなた自分のあだ名知らないの」  知らない。ここは「はい」と答えるしかない。 「抜群のスタイルにほりの深い顔立ち。みんなの羨望の的なんだけど。そんな陰気な口紅やめて、パーッと明るくしなよ」  パーッと、か。おじさんの騒動の時も、同じこと言っていた人がいたっけ。  ふふ。口もとに小さく笑みがあらわれた瞬間、心が決まった。
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