キリンの笑顔

8/8
前へ
/8ページ
次へ
 帰りがけに美容院で金髪にした。顔を隠すように伸ばしていた髪をばっさりと断ち切る。眉も細く整え、ブラウンに染める念の入りようだ。  新たに買った赤みの強いルージュを、美容師が引いてくれる。  よくお似合いですよ、のささやきは、まんざらお世辞でもなさそうだ。すっかり色を入れ終えたあと、鏡の中から見返してくる女は、どこにこんな自分が眠っていたのかと驚くほど華やかだった。  つい照れて目をそらしそうになるが踏みとどまった。自分自身と正面から向きあう。  夜があければ、私は生まれ変わった姿を会社の人々に披露する。いや、会社に限る理由はない。明日を待つ必要もない。こそこそ息をひそめてすごすのはもうやめた。ちぢこまるのは、もうイヤなの。今から私は、この顔で生きていく。さあ、もっと身なりを整えなきゃ。  こういう時、百貨店はありがたい。夜おそくまで、あらゆるおしゃれな品を調達できる。高いけど。 「サイズは豊富にございます。お気がねなく、お申し付けください」  とても丁寧に対応してもらい、希望通りのものを手に入れた。サイズもジャストフィット。  立ちあがり、あたりを見まわす。いつもより遠くが見える。十センチのヒールが私に与えた世界は広かった。気に入ったので、そのまま履いて帰ることにした。  駅の構内は人、人、人。ヒール初心者の私はどうにも不安定で、すぐにも転びそうだ。確かめるように一歩一歩、前に進む。  切れる気配を見せずに行き来する周囲と、足なみをそろえることができない。  はたから見れば、今の私は、草原をのんびり歩くキリンのようだろう。  ゆったりとすごすキリンは、まわりに安心を届けるという。私を見て、人々は何か思うことはあるのだろうか。  とん、と軽く背中に当たるものがあった。私がふりむくのと、チッと舌が鳴らされるのが同時だった。 「のろのろ歩くな」  小柄な中年男性が、スマホから目を引きはがしながら吐いた台詞は、「のろのろ」だけがとげとげしく、「歩くな」はすっかり尻すぼみだった。おもしろいほど、男の顔に狼狽が走る。  ぶつかった時、スマホに捧げた視界の隅に、私のヒールが映ったのだろう。  相手は女だ。文句を言えば謝ると信じこみ、声に威嚇の色をふくませた。まさか、首をそっくり返さなければ、顔が見えないほどの女だとは思わず。今の私、身長ざっと二メートル。 「言いがかりをつける気?」  男の卑屈な顔が、課長を連想させたからかもしれない。いつも唇の奥に封印する文言がすらりと出た。それも極めつけに不機嫌な声で。  眉間にとがった力を集めて見おろす。  男の口の端が、コンマ数秒のリズムで細かく動く。何か言いたいのだろう。  そいつを目の力でねじり潰しているうちに、男は顔をそむけた。背を丸め、腕を組んだ私の横をすりぬける。  軽い猫背が人ごみにのみこまれるまで、私は黙って立ち続けた。  人々の流れは止まらない。幾人かが軽くあごを上げ、私を見やった。  いつまでも、じっとしているのは邪魔だな。  そっとつま先を前に出す。まずはこの靴で、ちゃんと歩けるようになるのが先決だ。慣れなきゃ。  明日はこれを履いていく。会社に着いても顔は伏せない。髪の色で仕事がどうのだなんて言わせるものか。  ひとつ歩を進めるごとに、新たな決意が積み上がる。  もし課長が文句をつけてきたら、さっきみたいに言ってやろうかな。いつもの嫌味のお返しに、さらにつけ足してやろうかな。 「課長も金髪にしてみてはいかがですか。髪の色が地肌にとけこんで、何かを隠すには、ちょうどいいみたいですよ」とでも。  いやいや、さすがに言えないな。  でも、どのくらい髪がピンチなのかは、じっくり観察してやるぞ。  ふふふふ。  なんだか、デスクに呼び出されるのが待ち遠しいや。  あ、そうだ。キリン。私、役に立つかも。  ふっと走った思いつきに、まだ遠慮を残していた膝、腰、背骨がぐっと伸びる。額を上げ、胸を張る。  いったいどれだけいるのか、見当もつかない多くの人たちが、疲れと、あきらめと、かすかないらだちを表情の奥に封じこめ、黙々と縦横に居場所を変えている。  頭ひとつ、人ごみから飛び出した私の笑顔は、遠くからでもよく見えるはずだ。  この笑みが、誰かに届くといいな。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加