第二話『チェスボクシング部の風間さん』

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   私には三つ歳の離れた弟がいた。名前をたかしという。  たかしは、私が小学校二年生の時に事件に巻き込まれて亡くなった。当時、まだ幼稚園だった。  あの日、私はいつものようにたかしを連れて運動公園で遊んでいた。ボール遊びだったかおままごとだったか、何の遊びだったかは忘れた。その日、私たちは二人きりだった。いつもは柳田も一緒にいるのだけど、あの日の柳田は何故かずっともじもじしていて、私たちと遊びに行くのを嫌がったのだ。あとから聞いた話だが、柳田はその前日、たかしに告白されていたらしい。柳田は幼稚園の頃からしょっちゅう誰かに告白されては袖にするようなマセた子どもだったが、流石に姉弟のように育った幼馴染からの告白はキャパを超えたらしい。どう返事していいか分からず、たかしを避けていたのだ。  今にして思えば、たかしは柳田以上にマセた子どもだった。  幼稚園児にも関わらず女の子とばかり遊ぼうとするし、美人の幼稚園の先生を口説いたりもしていた。有名な某アニメの影響だろうと両親や周囲の大人は楽観していたが、アレは割とガチめに人格矯正が必要なガキだったのかもしれない。あの日も、たかしは私がちょっと目を離した隙に、通りすがりの女子高生のスカートを引っ張りながら「お姉さーん、ぼくと一緒に新しい扉を開かない?」と言って、口説いていたのだ。あの頃はアニメかなんかの真似をしているのだろうと思っていたが、あのガキはいったいどこでそんな言葉を憶えてきたのだろうか? 私はたかしの耳を掴んで引き剥がし、女子高生に平謝りした。  「いい加減にしなさいよっ、アンタ!」  たかしがナンパの真似事をする度に、私はいつも説教をした。その日も結構長い時間くどくどと説教をしたが、たかしはまるで聞いていない様子だった。今なら文字通りの意味で身体に言葉を刻み込んでやることが出来るのだが、当時の私は今とは真逆で手よりも先に口が出るタイプだった。だから、舐めた態度のたかしを見ても、頬を膨らませることしか出来なかった。  「・・・あれ?」  たかしの説教を諦めた私は、ふと自分のバッグが置かれているベンチを見やった。ピンクの小さな手提げカバン。そのバッグにあるはずの膨らみが見えなかった。私はバッグに駆け寄って中を見る。入っていたはずのお菓子が見当たらない。私たち姉弟は三時のおやつを外で食べるのがルーティンだった。今日のおやつは楽しみにしていた大きなチョコパイ。バッグに入ってたお菓子がない、と私が言いかけた時、  「あっ、それさっきのお姉ちゃんたちに上げちゃった」  と、たかしが言った。  その表情には、悪びれるという様子がまるで無かった。  その後、私が何を言ったのかは憶えていない。ただ、凄く怒って、凄く怒鳴ったのは憶えている。大半は意味の分からない言葉で、言っていることは似たようなことの繰り返しだった。たかだか百円かそこらのお菓子のことに、私はいったい何をそんなにムキになっていたのか分からない。・・・いや、当時の私ですら、本当はチョコパイのことなんてどうでもよかったのだろう。今まで積もりに積もった弟への不満の臨界値が、あの瞬間決壊した。ただ、それだけの話。普通の姉弟だったら、その後数日ギクシャクして、気付いたら元通りになっている。そんなありふれた喧嘩で終わるはずだった。  でも、私たちはそうはならなかった。  たかしは私が怒鳴っている時、一言も口を開かなかった。ただ黙って、じっと俯いていた。いつもニコニコとしている弟が、あの時だけはずっと口を引き結んでいた。  私はたかしを散々罵った後、置き去りにして一人で帰った。あの時は、一分一秒たりとも一緒にいたくなかったのだ。後をついてくるかなと思い後ろを振り返ったが、たかしはその場に立ちすくんだままだった。勝手にしろ、と私は気にも止めずに家に帰った。  そして、たかしは夕食の時間になっても家に帰って来なかった。  夜になって、パトカーが私の家にやって来た。  両親が泣き崩れる声がした。
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