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高校に入学して一週間ほど経った頃だ。
その日、僕は校舎の中をあてもなくふらふらと彷徨い歩いていた。特に何か目的があったわけではない。これからここで三年間を過ごすのだから、見学がてら校舎の中を一通り見ておこうと思ったのだ。
普通教練から渡り廊下を抜けると、文化部が軒を連ねる特別教練に辿り着く。中に入ると、壁のそこら中に各部の甘い勧誘文句を綴った張り紙が無数に貼り出されているのが見えた。その中に『チェスボクシング部』という文字を見つけて、僕は思わず二度見する。ちょっと興味を惹かれたが、かつて七つ下の妹に将棋で▲7六歩△3四歩▲7八銀で投了に追い込まれたことを思い出し、僕は張り紙からそっと目を逸らした。
その時だった。
窓の向こう━━中庭に、一人の女生徒が歩いているのが見えた。
陳腐な表現だが、こんな綺麗な人は見たことがないと思った。
異性に対し、そんな感想を抱いたのは生まれて初めてのことだった。
流れるような綺麗な黒髪とほっそりした白い手足。ドームで何万人も集めるようなアイドルすら一発で蹴散らせそうな整った顔立ち。自分の顔が赤くなっているのが体温で分かった。どくどくと、心臓が脈打つ音が聞こえる。僕は呆けたように立ち尽くし、その人の姿をいつまでも目で追っていた。
一目惚れとは、たぶんこういうことを言うのだろう。
その人が、柳田おれんじというキラキラネームの同い年の女子だと知るのは、それからしばらく経った後のことだった━━
※
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
その憧れの人は今、アマゾンの奥地に生息する得体の知れない猿のような奇声を上げながら、腹を抱えてのたうち回っている。
「いひひひひひっ!! なになに? キミ、さっきからずっと訳わかんないことばかり言ってたのって、もしかして緊張してたからなの? 憧れの女の子を前に緊張しちゃって、うまく喋れなくなっちゃってたからなの!?」
「・・・」
「絶対そうだよね! だってキミ、最初から挙動おかしかったもんね! 全然私と目を合わせてくれないし、合ったら合ったですぐ逸らすし! それにそのネクタイの色、私と同じ二年でしょ? タメなのに何で敬語使ってんだコイツってずっと思ってたんだけど、そういうことか!? 緊張してたからか!?」
「・・・」
「私とやたら離れようとするのだって、アレ、本当は怖がってたんじゃなくて、テンパってたんでしょ!? ずっと憧れてた女の子が急に近付いてきたもんだから、どうしていいか分からなくなっちゃってたんだよね? ね!?」
「・・・」
「ねぇ、どんな気持ちだったの? 今日一日、ずっと憧れだった女の子と一緒にいて、キミ、どんな気持ちだったの!?」
「・・・」
「当ててあげようか? いっぱいいっぱいだったでしょ? キミ、女の子とデートどころかまともに会話すらしたこと無さそうな顔してるもんね? 『僕には感情がありません。サイコパスですから』みたいな顔しといて、内心は心臓ばっくばくだったんでしょ? ゲロ吐きそうだったでしょ?」
「・・・」
「でも、憧れの女の子の前で無様な姿は見せられないもんね〜? だから、一生懸命頑張って格好つけてたんでしょ? ラノベのやれやれ系みたいにダルいこと言って敬語で喋っておけば、一応は格好つくもんね? キミ、本当は全然そんなキャラじゃないんでしょ? うひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
「・・・」
柳田さんの容赦ない煽りを聞きながら、僕はひたすら黙って耐えていた。
柳田さんは今まで僕のことを散々人でなしのように扱ってきたが、真に人の心がないのは柳田さんの方だと思う。
誰だって、そんな風になるに決まってるじゃないか。
「いひひ、めっちゃプルプル震えてる。ほらほら、泣かないの。憧れの柳田さんだぞ? キミの大好きな柳田さんが目の前にいるんだぞ? 機嫌直せよ童貞? うひひひひ!!」
柳田さんの煽りはバリエーションが尽きることがなかった。
それからたっぷり五分間、僕は柳田さんに精神的な責め苦を味合わされ続けた。
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