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そして杉本は言った。まるで悲劇のヒロインでも見るような目をしながら。
「まあ、頑張れよ。ヤバくなったら電話でもくれ。別れさせ屋の他に、人助け的な仕事も引き受けてるんでね。はいこれ名刺」
俺の上着のポケットに名刺を勝手に捩じ込んだ。それから背中を向けて杉本は歩き去った。杉本の後ろ姿はやがて暗がりの中に溶けて消えた。
もらったばかりの名刺を取り出して、月明かりに照らして見た。肩書きも何も記載されていない、名前と電話番号とメールアドレスだけの実に素っ気ない名刺だった。
「別れさせ屋?」
若原敦士は訝しげな眼差しを俺に向けている。会長室には俺と若原の他には誰もいない。二十二時。社員のほとんどは退社しているが、部所によってはまだ居残りして残業中の社員たちもごくわずかながらいることにはいる。この時間になっても居残っている社員たちはいわゆる堅気ではない。ほぼ例外なく銃や麻薬の密輸部門に籍をおく〈向こう側の世界〉の住人たち、すなわち反社半グレの類いだ。彼らと一般の社員たちを外見で区別するのは難しい。少なくとも俺には、誰が堅気の一般社員で誰が反社なのか、まるで区別がつかない。彼らはそれほどまでに社会に完全同化して、世の中に巧みに溶け込んでいる。アスカが生きていたときは、いつもアスカがヒントをくれた。「今の営業社員、反社ですよ。麻薬担当なんです」などとさりげなく囁いてくれたりしたのだが、アスカ亡き今そういうことが知りたければ会長の若原敦士に訊くか、あるいは俺が自力で探らなければならない。当然だが社員たちに「あなた反社ですか」などと直接訊くわけにはいかない。
「別れさせ屋と言ったのか、おまえに。あの杉本が確かにそう言ったのか」
「ああ、言ったよ」
「なるほど。おまえはそれを真に受けたわけだ」
「何が言いたいんだ、若原」
「おめでたい奴なんだな、おまえは」
「何?」
「本当の別れさせ屋が別れさせ屋を名乗るはずないだろう。公安警察は一般市民に麻薬取締官を名乗るし、マトリはマトリで、市民の前ではコーアンを名乗る。ヤクザは商人やサラリーマンのふりをしたがるし、とにかくダークな世界に生きるアウトローな連中はみんな本当の身分を明かしたがらない。そういう僕も貿易会社経営を隠れ蓑にしているが、化けの皮を剥がしてみれば麻薬と銃器の密輸が本業のジャパニーズマフィアってところか。それが僕の本当の顔だ。うちの社員の中でも僕の正体を知っているのはごく一部だけだ」
「ちょい待て。さっきから何言ってんだ。わかるように説明してくれよ」
「殺し屋だよ。杉本は殺し屋だ。正確に言えば銃の売人兼殺し屋。杉本は銃を売りさばいて金を稼ぎ、依頼されて人を殺して報酬を得る。あいつはそれで食い繋いでるんだよ。別れさせ屋というのはただのカモフラージュだ」
「それは、本当なのか」
「嘘だとしたら、こんなつまらない嘘はないだろう。本当の話だよ。杉本は銃の売人でしかも職業的殺し屋だ。ただ、深読みすれば、別れさせ屋というカモフラージュもまったく見当違いでもないな」
「どういうことだ」
「人がひとり殺される。それによって、故人と親しかった者たちは、死別という形の別れに直面させられる。すなわち、別れさせられるわけだ。生者と死者として。そういう意味ではまさに別れさせ屋。なかなか上手いブラックユーモアだな。実に杉本らしいよ」
何がブラックユーモアなものか。そんなもの、ユーモアでも何でもない。だがそれはいい。今は言わずにおく。
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