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小夜は鍵盤に触れた瞬間、胸がいっぱいになった。
この瞬間を何度夢見たか分からない。懐かしさと苦しさに、涙が溢れて起きたこともあった。
今もその気持ちは襲ってくるものの、それらを圧倒的に上回るものが、小夜の涙の温度を変えていた。
それは愛おしさだ。元から持っていながら、心の奥深くに眠っていた温かい思い──いや、違う。眠っていたのではなく、押し殺していたのだ。今なら分かる。
──私……本当は、ずっと戻りたかったんだ……。
ピアノを弾いていた、あの頃に。将来を期待されながらも胸を膨らませていた、あの頃に。父と一緒に弾き語りをしていた、無邪気で幸せなあの頃に。
そこで、はたと思い出した。父がピアノを弾きながら、何を見て笑っていたのか。
脳裏でチリンと鈴が鳴り、虹色の輪がシャボン玉のようにふわりと舞った。
「エーデルワイス……」
小夜は弾かれたように隣を見る。
「父に初めて教えてもらった曲が、『エーデルワイス』でした。ドイツ語もこれで初めて知って……」
目頭がまた熱くなり、新たな涙が頬を伝う。駄目だ。これ以上は言葉にならない。
奏介は親指の腹でそっと涙を拭うと、トントンと優しく背中を叩いた。
父が笑顔を向けていた相手は、小夜だった。
愛娘と無邪気に弾き語りをしている時は、彼も天才ピアニストの呼び名を忘れていたのかもしれない。
◇
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