#06 動き出す気持ち

5/6
前へ
/58ページ
次へ
 小夜(さよ)は鍵盤に触れた瞬間、胸がいっぱいになった。  この瞬間を何度夢見たか分からない。懐かしさと苦しさに、涙が溢れて起きたこともあった。  今もその気持ちは襲ってくるものの、それらを圧倒的に上回るものが、小夜の涙の温度を変えていた。  それは愛おしさだ。元から持っていながら、心の奥深くに眠っていた温かい思い──いや、違う。眠っていたのではなく、押し殺していたのだ。今なら分かる。  ──私……本当は、ずっと戻りたかったんだ……。  ピアノを弾いていた、あの頃に。将来を期待されながらも胸を膨らませていた、あの頃に。父と一緒に弾き語りをしていた、無邪気で幸せなあの頃に。  そこで、はたと思い出した。父がピアノを弾きながら、何を見て笑っていたのか。  脳裏でチリンと鈴が鳴り、虹色の輪がシャボン玉のようにふわりと舞った。 「エーデルワイス……」  小夜は弾かれたように隣を見る。 「父に初めて教えてもらった曲が、『エーデルワイス』でした。ドイツ語もこれで初めて知って……」  目頭がまた熱くなり、新たな涙が頬を伝う。駄目だ。これ以上は言葉にならない。  奏介(そうすけ)は親指の腹でそっと涙を拭うと、トントンと優しく背中を叩いた。  父が笑顔を向けていた相手は、小夜だった。  愛娘と無邪気に弾き語りをしている時は、彼も天才ピアニストの呼び名を忘れていたのかもしれない。  ◇
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加