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三月中旬とは言え、春遠からじといった天候は、やはり一筋縄ではいかず、昨夜から、マンションのリビングの窓伝いにその荒れ模様を呈していた。
葛西悦司は、ある理由からあえて乾燥機にかけず、ベランダに干してあるタオル類を取り込みながら、-この分で行くと今日も花粉の飛散がすごいだろうな- と覚悟した。
葛西自身においては、まだ花粉症の症状は出ていないものの、老舗のフレンチレストラン「エスポアール」の同僚数名は、この日本で猛威をふるい続けている疾病に悩まされている。
午前八時、いつものようにまだ別室で横になっている母親には声をかけず、そのまま高輪のマンションを出る。
葛西がメートル・ドテルを務めるレストラン、エスポアールは芝大門のオフィスビル街の一角にあり、現オーナーの真田の父が開いた店だった。
その昔、真田の父が、ヨーロッパに出向いた際 -こんな店が日本にもあったなら-と感動を覚え、帰国してすぐに着手し、数年の月日をかけて完成したのがエスポアールだった。
グランドメゾンとして遜色ない内装、調度品の数々、それに加えてフランス大使館の職員に料理のチェックや監修を依頼した結果、メディアが挙って取り上げる名店にまでトントン拍子で昇りつめた。
「エスポアール」の名シェフとして誉れ高い日高芳夫は決して偉ぶる事なく、マスコミからの取材依頼も多い。そうしたインタビューの中で、彼は、10代でパリに渡り血のにじむような努力の結果、フランス料理の真髄を身につけることが出来たのだと語り、その波乱万丈な生き方も、多くの人々に感動を与えてきたのだった。さらに、提供する料理は、日高の尊敬してやまないポールポキューズの技巧を参考にしており、時に若手のアイディアも取り入れている。
よって、伝統のみならず時代のニーズにも迎合しているやり方で、季節によっては予約もままならないフレンチの名店としてその名を馳せていた。
メートル・ドテルの葛西は、前任者の退任によるピンチヒッターとして急遽採用され、従来の素直さと勤勉さによって、現在の誰もが認めるメートルにまでなった。
葛西が入店した頃、先代のオーナーが葛西を気に入り、いろんな店に彼を連れていき、舌を超えさせた。それが今の葛西を形作ったという事もあり、彼にしてみれば、店の為には身を粉にして働かねばと言う潜在意識が骨の髄まで浸透しているのだった。
三月は、卒業シーズンという事もあり、中旬以降、レストランは、送別会での予約が目白押しとなる。まとまった額の代金が店に入る一方、大勢で来店しているがゆえの宴会場のような騒々しさに辟易してしまうケースもある。
葛西としては店の品格を気にするあまり‐あの店はお高く留まっている‐と評されるのもマズいと考えており、そこはメートルとしての自身の腕の見せ所…として、臨機応変に取り組んでいた。
葛西は先に出勤している者達同様、一階の控室でタイムカードに打刻した後、いつものように本日のスケジュール表を持って、シェフの日高らとミーテイングを行う。
ディナーは料金を低めに設定できないが、ランチはフレンチを気軽に味わってもらうための糸口として考え、現オーナーが三千円からのメニューを用意している。
それが功を奏して、あっという間に予約が埋まり、スタッフ達は‐いよいよ今日も怒涛の一日が始まる‐という緊張感を漂わせて葛西からの言葉に耳を傾けていた。
スタッフの構成は、メートル・ドテルの葛西、シェフ・ド・ランの鳥越とその指示で動くコミの秦、言わばギャルソンの三沢、そしてシェフの日高、スーシェフの橋口からなっている。
食材はスーシェフ(副料理長)が、精肉店、青果店等から取り寄せ、それ以外の必要なものは休憩時間にメートルの葛西が調達してきていた。
三月下旬、三寒四温でまだ天候も安定しない日々が続いている最中、フレンチレストラン「エスポアール」では、ランチの客が引けたあと、スタッフが交代で昼食の時間を取っていた。
橋口が
「葛西さん、賄い、どうする?魚だけど」
と言い、フライパンの中のキスのエスカベージュを見せてくれるが、葛西は右手を軽く額に当て、拝むようにして丁重に断った。
「あっ、葛西さん食べないなら、俺、頂いてもいいですか?」
見習いの三沢が間髪入れず申し出ると、秦が
「お前なぁ、さっき、しっかり食っただろうが」と諌める。
そんな中、日高が
「食わしてやれよ。余らせても勿体ない」と言い、何とか収拾がついた。
「最近、朝食に重きを置いているせいか、昼抜きでも平気になってきてましてね。美味しいのはわかってるんですが…腹、ぽっこりのメートルでは格好つかないですし」
「俺、葛西さん位、スマートになったら、家の奴に心配されるな。あんた、ガンにでもなったんじゃない?って」
その日高の言葉に皆、こらえきれずに吹き出すが、葛西だけはキュッと唇を結び、引き続き午後の業務に取り掛かった。
19時からのディナーは、予約の客で満席になった。
遠山秀夫は幾度となく「エスポアール」を訪れている建築学の権威で、今日は、妻と嫁いだ娘、孫の計4人で来ていた。
葛西は挨拶に出向き、現在不在のソムリエに代わり、注文を取る。
「おぉ、葛西君。今日は孫の中学入学祝いで寄ったんだ。
子供にフレンチというのも猫に小判かも知れんが、ファストフードばかり食っていたんじゃ、いつまでたっても本物の味に触れられんだろうからね」
「遠山様。ごひいきにして頂き、有難うございます。本日はヴォライユをメインに、他にヤマウズラのロティ、小鳩のポッシュなどを取り揃えております」
遠山はふんふんと頷き、説明に耳を傾けていたが、結局、アラカルトをやめ、コースで注文した。
葛西らが去ると、俄かにテーブルは日常の家族風景にとって代わり、早速、遠山が娘に
「どうなんだ、徳井君の建築事務所の方は?何か大きな受注でも入っているのか?」と聞く。孫娘の恵里佳が
「お父さん、最近、家にいないから…」と答えると、娘はとっさに
「違うのよ。今、能楽堂の仕事が来ていて、そのせいで事務所に泊まり込みの日が続いているの。平日にふらっと帰ってきては、又、すぐに戻っていってしまうからせわしないったらありゃしない」と苦しい言い訳をする。
遠山の妻、寿美は
「そんなに大変なら、妻としてあなたが出来る限りの事をやってあげないと。食事とかも満足に取っていないんじゃない?」と、根っから娘の言葉を信じ、義理の息子の健康を案じる。
私立大学で建築学を教えている夫、秀夫に何の不満も持っていない寿美は、実の娘の苦し紛れのうそを見抜く力も持ち合わせておらず、それによって、記念日の会食も、和気あいあいとした中、進められていく。
実際のところ、遠山秀夫の娘、瑞穂は、夫、徳井との二年近くになる別居を仕事のせいであるとは考えていなかった。- 女がいる -という確信が取れても、娘の為、世間体の為、気づかない振りをしているのが得策と考え、時に洗濯済みの衣類を届けたりして、外から見ればごく普通の中高年夫婦の体を装おっていた。
- 特に両親にだけは心配をかけたくない。父も母も、教育に惜しみなく金を使ってくれ、やがて嫁ぎ、家を出て行ってしまう娘にも、これ以上はない愛情をそそいでくれた。
親にとって悲しいのは、子供が傷つき再起不能となること。それならば、幸せな振りを見せる位、なんでもない-
瑞穂は、そうした心情をひた隠しにしながら、家族が繰り広げる他愛もない会話に自らも加わり、沈みがちな気持ちをワインで誤魔化した。
残すところあと数日で四月という日、一階のテーブル席には、多くの客が着き、ボリュームを抑えた会話と絶え間なく響くカトラリーの接触音で、老舗のグランドメゾンの雰囲気を辺り一面に漂わせていた。
そして地下の別室では、ある大学のゼミの担当教授が大学を去るということで、学生らによる一席が設けられていた。
学生の分際でフランス料理と聞くと、支払いは大丈夫なのか?という一抹の不安を抱いてしまうが、学生達は学生達なりに、勉強の合間、アルバイトに精を出し、大なり小なり、まとまった金額を稼ぎ出す。
彼らは、稼いだ金を、彼女とのデート代として使うわけではなく、去っていく教授の為にグランドメゾンでの高額な食事代として使う。
-そこまで慕われる教授もいるのだな-
葛西は、殺伐とした人間関係が幅を利かせている世の中に対抗しているかのような温かな関係に、心を打たれ通常であればある一定の所で、ストップするパンのお代わりも、希望する学生に惜しみなく与えた。
夜も更け、全ての客が去った後は、各々決められた区分にそって清掃をし、店を出る。
葛西も、初夏と呼ぶには早いひんやりとした風を顔面に心地よく受け止めながら、メトロへの階段を降りる。
薄暗い店内で黒子に徹している身としては当然のことではあるが、改札を抜け、ホームで電車を待つ間にも、誰かから声を掛けられることもない。
母と二人で暮らすマンションは、三田から二つ目の白金高輪にある。
高輪は御屋敷町として名高いが、二十数年前には、個人経営の商店などもあって人々の暮らしに寄り添った町でもあった。
利便性を追及した結果、都会化が進み、町自体の風通しの良さも減っていった。
それでも、駅の改札を抜けて4,5分も行けば、遅くまで営業している居酒屋や、コンビニエンスストアがあり、寂しさを実感しなくて済む。
駅から徒歩圏内にある住まいは、築年数は経っているが、管理組合とマンション販売会社との関係が良好であり、施設管理も為されている以上、これといったマイナス要素はない。
74歳になる母親は、若い時分、ナースとしてバリバリ仕事をしていたのだが、それはひとえに公務員として比較的時間が自由になる父のおかげだった。
家事全般、育児、ご近所づきあいといった母親が受け持つパートを抜かりなくやっていた父は、葛西と葛西の兄にも -男だから、女だから…ではなく、その時々、出来る者が担当すれば良い- というのを身をもって示してくれた。
そんな父が不治の病いを患い、一か月もしない内にこの世を去ったのは葛西が大学を卒業した年だった。
兄と葛西は互いに励まし合い、父の死を乗り越えられたが、母にとっては青天の霹靂とも言える出来事だったようで、それから暫くは、食べ物も喉に通らないという日々が続いた。
きっと自分が退職したら -二人で色々な場所に行き、沢山の思い出づくりをしよう-とでも考えていたのか、父の死後母はがっくりと肩を落とし、一気にやつれ、休みの日でも自室にこもったきり出てこなくなってしまっていた。
学校、会社でフレッシュ達がスタートを切る四月は、駅などで、まだ馴染んでいない制服、スーツに袖を通している姿の彼らに出会う。
良い友達が出来れば、それだけで四年間の学校生活は楽勝!という学生と違い、社会人は就職戦線を勝ち抜いたからと言ってのんびりしているわけにもいかない。
身長こそ高いが、瘦せ型の葛西は大学入学時、ラグビーや柔道部からは声がかからず、唯一誘いを受けたのが応援団だった。
炎天下の日、ふらふらになりながらも練習を重ねた経験は一先ず、嫌な事から逃げないと言う、鋼のメンタルを自身に授けてくれた。
とは言え、活動は辛いものばかりではなく、大学3年の夏合宿の終わりには、大手企業に就職したOBが皆を高級クラブに連れていってくれた。
OBと違い、そのような場に足を踏み入れた事のない葛西らは、陶器のような肌を適度に露出した美女達の前で、ただひたすら居住まいを正しくしているしかなかった。
ゴージャスを絵に描いたような内装の中で、居たたまれない気持ちで過ごしていた自分がなつかしくもあり、消してしまいたくもある。
ディナーで新規の客が来店する際には、できる限りリサーチを行い、それをスタッフに伝えるのも葛西の重要な仕事の一つである。
そして、今日も事前のミーティングで、シェフドランの鳥越から「七時予約の吉岡様」についての質問を受ける。
「銀座4丁目にある椿宝飾店の方々で、会食と伺っている。7名で来られるので左奥二卓を使います」
そう答えながら葛西は、老舗中の老舗であり、銀座のランドマークともなっているこの店の事はスタッフも一度や二度耳にした事があるはずだと踏む。
椿宝飾店は戦後の起業ではあるが、良い顧客を独自のルートで開拓し信用が必須とされる業界でその名を着実に知らしめてきた。
続いて、シェフの日高からも、料理とそれに見合う酒についての説明があり、ミーティングを終えた。
準備が整い、時間きっかりに一行は現れた。
「吉岡様、お待ちしておりました。ご案内します」
皆、かっちりとした、仕立ての良さがわかるスーツ姿ではあるが、葛西はその中でもある一人の人物が、他の者から一様に敬意を表されているのを瞬時に把握した。
そんな面々ではあったが数人はフレンチに対して一家言あるようで、食前酒も先手を打つように「グリュックあるかな?」と聞いてくる。
海老のカクテルのアミューズグールは彼らのお眼鏡にかなったようで「偶にはこういう贅沢もいいね」とした会話も葛西の耳に入ってきた。
上司らが、美酒と、思わず見惚れてしまう完成度の高い料理に没頭し、せわしなくカトラリーを動かしている姿を目にした吉岡は、心の中で一人、快哉を叫んだ。
部長からフレンチレストランをどこか予約するよう依頼を受けた時、食通の
姉に意見を求め、教えてもらった店がエスポアールだった。
アミューズグールとシャンパーニュで始まった食事は、魚介のコキーユ、トリュフのブーシェなどのアントレに移る。
‐普段耳に入らない事を遠慮なく話してくれ‐とした専務取締役の後押しもあり、人目から隔離された一角では枠にとらわれない自由闊達な意見交換が行われていた。
吉岡が椿宝飾店への就職を志望したのは親戚に宝石店をやっている者がいた事も大きいが、この会社自身が現地に赴いて、原石を買い付け、その後は加工、商品化と他社の手を借りずに自社で全てを担っている事に魅力を感じたからだった。
「今期の売れ筋として、カラーは出遅れているのかな?」
専務が売り場での動向を訊ねる。
「そうですね。カラーは中々、難しいですね。皆さん、将来を見越して選ばれていまして。その点から言ってもダイアモンドは年間を通して出ている状況です」
「それと、インターネットでの販売、あれは良くない傾向だなーと思っていてね。だいいち素っ気ないだろう?」
部長はそう述べ、続いて
「照明の下で、実際に石を見てその良さを実感してもらいたいが、やはり来店には、皆、消極的になるか?」
と付け加えた。
「今、キャリア系の女性の中で、関心を集めているのがサファイアです」
吉岡が接客中、気づいた事を口にしてみる。これに対し、専務は
「だが、カシミールのサファイアはもう出回っていないだろう。40年前には多少あったが」と、反論に出た。
カシミールは、インドアジア大陸北西部、ヒマラヤ山脈西部、及びカラコルム山脈西部を占める地方であるが、この地域の帰属をめぐり、インド、パキスタン間、インド、中国間においての紛争が現在も続いている。
1947年、インドとパキスタンは分裂し、25年後に制定されたシムラ協定にて、パキスタンがバルチスタン、キルギット等の北部、及び北東部と西端部を、インドがジャンム、カシミール州を実効支配することとなる。
このインド、パキスタン、中国の三国によって、権利を主張されてきた複雑な背景を持つカシミール地域で稀少価値とされるものがカシミールサファイアである。サファイアと一口に言っても、産地別にその特徴がみられる。
ミャンマー産は石が大粒で美しいが、算出量に限りがある。
オーストラリア産は輝きが少なく、スリランカ産は色調が淡い。これらの中において、他の追従を許さないものがカシミールサファイアだった。
今となっては、カシミールの海抜4556mに位置するザスカール地域にあって、その採掘も困難とされている為、カシミール産と表示があっても、果たしてそれが本物なのかどうかは謎に包まれている。
「エメラルドも昭和の初期から、現代にかけての長きにわたり、確固たる存在価値を持ち続けていますね。若い方から年配者まで、幅広い年齢層に受け入れられ、ルビー程華美でなく、パール程大人しくない。根強い人気があります」
エメラルドはその60%が南米コロンビアで算出されており、他にはブラジル、パキスタン、シベリア、ザンビアからも出ている。
しかし、専務としては外す訳にはいかないダイアモンドについても気になるらしく
「ダイヤは多少高くても、いざとなればそれなりの値で売却できる。だからこそ、実際の輝きと質を店頭で確認してもらいたいんだよ」
と、念を押した。
ダイアモンドが発見されたのは、かなり前に遡る頃の古代インドだが、その後十八世紀から十九世紀にかけてはブラジルが主な産出国だった。
ブラジルでの産出に限界が見られた頃、今有数の産出国となっている南アフリカの鉱山が発見され、近辺の地域は採掘したダイアモンドの輸出で活性化を図る事ができた。
1880年、セシル・ローズとチャールズ・ラッドにより設立されたデビアス鉱山会社は、1967年、オラパ鉱山を発見する。
デビアスはボツアナ政府との共同出資で合弁会社「デブスワナ」を立ち上げた。オラパ鉱山は発見された四年後から始業し、四〇数年経た現在もダイアモンドは採取し続けられている。そして、この世界的に有名なダイアモンド貿易会社は、繁栄の礎を築いただけにとどまらず、現地に雇用も産み、人々の生活に豊かさをもたらしている。
デセールが済み、コーヒーがサービスされると、専務が添えられたチョコレートを至極気に入り
「うまい。これ位甘さが抑えられていると、ちょっとしたつまみにもなるね」
と言い、他の者も賛同した。
吉岡は葛西に車を手配してもらい上司らが順番に店を後にしていくのを恭しく見届けて、最後は一人、店に残った。
葛西は忘れ物などをチェックした後、吉岡の下へ行き
「吉岡様、今日はお越し頂き有難うございました」と礼を述べた。
「こちらこそ、このお店を選んで良かったです。上司も満足しておりました」
「皆様に宜しくお伝え下さい。お車呼びましょうか?」
「私は電車です。車なんて十年早いってやつですよ」
そう言いながら、ネクタイを緩める事もせず、ドアの向こうに消えていった。
22時を回り、厨房以外の清掃をメートルの葛西中心で行った後は、一人、又一人と、スタッフが帰っていく。
そしていつものように最後になった葛西が施錠を行い、店を後にした。
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