【 序  】

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   暫くして風呂に入ろうとダイニングを通ると、一人前の膳が用意してあった。  光輝は近くにいた母に聞く。 「これ誰の? オヤジ今日早いの?」 「あんたのでしょ? 『後で食べると思うから』ってきっちゃんが用意してくれてたわよ」  『やっぱバレてたか……』 「それできっちゃんは? もう寝たの?」 「仕事するって。今日は向こうに帰ったわよ」    城田家は、祖父の代から宝石の買付 加工販売などをしている。  『株式会社 SHIROTA』といえば、その業界では知らない者はいない会社だ。  今は父親の将輝(まさき)が社長をしている。  尚輝が家を出たので、今は必然的に光輝が社長付きの秘書をさせられている。  桔花はジュエリーデザイナーをしている。  ブランド名は『chicca《キッカ》』  小さい頃から手先が器用だった桔花に将輝が手を尽くして教え込んだ。  本人は遊びながら覚えたものだが、今ではデザイン、加工、仕上げまで自分一人でしている。  『SHIROTA』の抱えるたった一人の専属デザイナーだ。  制作中はかなりの金属音がするので、自宅の防音完備の地下工房を使う。  なので、一人になりたい時は『仕事中』という体でこちらに隠れる。   「最近あんまり作ってなかったのに」  光輝が言った。 「何か閃いたんじゃないの?」  さっきの兄の姿が頭を過ぎった。 「兄貴(あいつ)を思い出して泣いてんじゃないだろうな」  心の声が漏れた。 「何ブツブツ言ってんのよ、食べるならさっさと食べなさい。片付かないでしょ」  『後で行ってみよ……』 「光輝、きっちゃんの邪魔しちゃだめよ」 「え?」 「今、後で行こうって思ってたでしょ」 「何でわかったの」 「光輝はきっちゃん依存症だから、いないと不安なのよね。さっきも尚輝にヤキモチ焼いたんでしょ」 「そんな事あるかよ」 「尚輝がいなくなった時には、光輝が随分きっちゃんを支えてくれて助かったけど、仕事する時は集中させてあげなさい」 「わかった、行かない」 「そうしなさい、明日の朝になればこっちに来るんだから」  『お見通しかよ』       ——桔花の自宅——  桔花は無心でデザイン画を描いていた。  さっき見た尚輝を思い出さない様に……。  〝カラン〟 「あっ」  落ちた鉛筆を拾うために椅子に座ったまま頭を下げた。  すると、涙がこめかみの方へ流れた。 「尚くん……ホントに歌手になったんだね」 「もう会えないのかな……」    尚輝は高校の頃からバンドを組んでいて、ライブハウスにもよく出ていた。  スカウトを受けた頃父親に会社の仕事を手伝わされ始め、自分の行く先が不安になり飛び出した。  桔花もそれはわかっていた。 「だけど、僕に何も言わずに行ってしまうなんて酷いよ」  ある日突然いなくなった尚輝の事がショックで、桔花は暫く食事も出来ない状態になった。  見かねた光輝が、尚輝を忘れさせようと桔花のブランドの立ち上げを提案し、忙しくする事で乗り越えた。  ここ数年、やっと尚輝がいない生活にも慣れてきていた。 「尚くん、何で僕を置いて行ったの……僕邪魔なんかしないのに」  そんな桔花を周りが腫れ物を触るように接してくれているのを理解はしていた。  『ママ達だって寂しいに決まってるのに』  『皆辛いのに僕だけがいつまでもこんなジメジメしているわけにはいかないよね』  普段は努めて明るく振る舞うようにしている。  ただ尚輝を思うと、たまに無性に泣きたくなる。  そんな時はこの工房に(こも)る。  普段は忘れて暮らせているのに、あんな風に見てしまえばアッという間に頭の中は尚輝でいっぱいになってしまう。  まだ尚輝が家にいた頃、桔花と尚輝はお互いに好意を寄せていた。  小さい頃から体も細く病気がちだった弱々しい桔花を、尚輝はいつも庇っていた。  成長するにつれ恋愛の対象になるのもごく自然な流れだった。 「大好きだったのに……そう思ってたのは僕だけだったんだよね」  やり切れない気持ちで泣き明かす。  そして翌日には何もなかった顔で城田家に顔を出す。  もうこんな事を何度繰り返したろう。 「尚くんはああいう世界で生きるんだ。僕はもう忘れなきゃいけないんだ」  今夜も自分にそう言い聞かせる。         * * *       翌朝、朝食の支度をしていると光輝が後ろから覗き込んできた。 「おはようきっちゃん……また泣いたの?」  光輝は桔花の顔を見て、容赦なく切り込んでくる。 「徹夜したから腫れてるんだよ」  適当なことを言って誤魔化すが、見ない振りをしないのが光輝の優しさだと桔花は知っている。  『やっぱり兄貴のこと考えて泣いてたんだ』  光輝にはわかっていた。  桔花が今でも尚輝を忘れられずにいることを……。  
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