ピネーディアの献身

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 ――マール牧場は、ピネーディアの中心街から少し離れた場所にあった。  なだらかな坂を登り、丘を越え、草の匂いが濃くなったのを感じると、目の前には雄大な牧草地が広がっていた。  どこまでも広がる緑の草原で、茶色と白のまだら模様をした乳牛たちが、のんびりと草を()んでいる。  その景色に、エリスが「わぁ」と声を上げる。  気持ちの良い風が牧草の間をさわさわと吹き抜け、彼女の髪を揺らした。  瞳を輝かせるその横顔に暫し見惚れてから、クレアは舗装された道の先を見上げる。丘の頂に、牧場の牛舎と思しき建物と、背の高いサイロが見えた。  クレアはその場所を指さし、「行きましょう」とエリスに促した。  予想通り、そこには牧場の事務所兼直売所があった。  缶に入ったミルクや様々な種類のチーズ、そしてソフトクリームが売られている。  売店は小さな木製の小屋で、初老の男性店員が一人だけいた。他に客はいない。クレアは好都合に思いながら、その男性に近付いた。 「すみません。ソフトクリームを二つください」  クレアが注文すると、店員の男性は無言のまま準備を始めた。その態度は、お世辞にも愛想が良いとは言えなかった。  さて。『レヴェロマーニ』について、どう切り出そうか。  てあ、クレアがその第一声を考えていると…… 「ねぇ、おっちゃん。この牧場、『レヴェロマーニ』にミルクを出荷しているのよね? あたし、ポンポンクリームが食べたいんだけど、なかなか買うのが難しくて。牧場の裏ルートで買えたりしないかな?」  と、エリスがさらりとした口調でそう投げかけた。  クレアはギョッとする。確かに、これから聞き出そうとしていたのはまさにそういう内容なのだが……こうも単刀直入に尋ねるとは。  店員の男性は、ソフトクリームを準備する手をピタリと止めると……ゆっくりこちらを振り返り、 「……まさか、まだその店の名を聞くことになるとはな。悪いが、そんな特別なルートはねぇよ。この牧場とあの店は、もう何の繋がりもねぇんだから」  そう、低い声で答えた。  その言葉に、クレアは耳を疑う。 「繋がりがない……? 『レヴェロマーニ』にはもうミルクを出荷していないということですか?」 「そう聞こえなかったか? もう半年も経つってのに、やはり巷にゃ知られていねぇんだな。フン」 『レヴェロマーニ』は、半年前からこのマール牧場のブランドミルクを使用していない……?  これはまた話が変わってきたぞと、クレアは驚く。 「ここはピネーディアで最も上質なミルクを扱う牧場だと聞いています。ここのミルクを使っているからこそ、『レヴェロマーニ』は高級菓子店として世間に認識されているのに……どうして出荷しなくなったのですか?」 「さぁな。俺はただのソフトクリーム売りだから、牧場の経営については何も知らねぇ。あの店のオーナーと牧場(ウチ)の経営者が話し合って決めたんだろ」 「その経営者の方は今どこに? 会ってお話を聞くことはできないでしょうか?」 「……聞いたところで何になる?」  ギロッ、と、店員は鋭い視線でクレアを見上げ、 「あの店とは縁を切ったんだ。ウチの経営者に聞いたってポンポンクリームは手に入らねぇ。あんたらにできることは、もうねぇんだよ」  語気を強め、言い放った。  そして、ソフトクリームをずいっと突き付けると、 「あの店の予約は数ヶ月先まで埋まってるって話だ。悪いこた言わねぇ。ポンポンクリームは諦めな。これ食ったら、あんな店のことは忘れるんだ。いいな」  そうぶっきらぼうに言って、店の奥へと姿を消した。  クレアは受け取ったソフトクリームを両手に持ち、呆然とする。  その隣で、エリスは瞬きもせず、立ち尽くしていた。  ――直売所を離れ、二人は牧草地を一望できる丘の上に登った。  そこで木陰に腰を下ろし、景色を眺めながら、ソフトクリームを食べる。  ひと舐めした瞬間、クレアは思わず目を見開いた。美味い。ミルクの深いコクと甘味が、一瞬で口の中に広がる。この甘さは、砂糖によるものではない。ミルクそのものが持つ、まろやかな甘さだ。  このミルクを使った菓子ならば、さぞ美味いに違いない。ポンポンクリームが長年人気商品だったことにも頷ける。  しかし……今、あの店で売られているポンポンクリームは、このミルクを使っていない。  もしかすると他所の高級ミルクを使用しているのかもしれないが、少なくともピネーディアにはマール牧場以上のブランドミルクは存在しない。  その辺りの経営方針も、現オーナーのマロンが全て取り決めているのだろうが…… (なんにせよ、我々ではポンポンクリームを手に入れられないことが確定してしまった。これで、この街での滞在が長引くことはなくなったが……エリスには残念な思いをさせてしまったな)  ……と、先ほどから無言でソフトクリームを舐めているエリスの横顔を、ちらりと見る。  その瞳には、いつもの覇気がまるで感じられない。ポンポンクリームを諦めなければならない事実を突き付けられ、相当打ちひしがれているようだ。  これまで数々の女性を相手にしてきたはずのクレアだが……本当に慰めたい女性(ひと)を前にした時、こうも言葉に迷うものなのかと、内心困惑していた。  それでも、何か声をかけたくて……少しでも、彼女を励ましたくて。  クレアは自身の無力さを呪いながら、そっと語りかける。 「……ソフトクリーム、美味しいですね。ミルクの味がとても濃厚で、甘味とコクがしっかり感じられます」  味の感想を共有すると、エリスは喜んでくれる。  共に過ごす中で知ったその情報を元に、クレアは懸命に言葉を選んだ。  すると、エリスは食べるのを止め、口を閉ざし……  しばらく沈黙した(のち)に、こう答えた。 「……うん。すごく美味しい。今まで食べたソフトクリームの中で、間違いなく一番。このミルクを使ったポンポンクリームは……それはそれは美味しかったでしょうね」  どうやらエリスも、ソフトクリームが絶品であるが故により無念さを感じているらしい。  しゅんと肩を落とす彼女を見ていられなくて、クレアは身を乗り出し、励ます。 「先ほどの男性のところにもう一度行って、マール牧場のミルクを使ったお菓子が他にないか聞いてみましょう。ポンポンクリームと同じくらいに美味しいスイーツが見つかるかもしれません」 「うん……そうだね、ありがとう。はぁ……いい加減、諦めなきゃだよね。子どもじゃないんだし」  あはは、と乾いた声で笑うエリス。  そして、ソフトクリームをぺろりとひと舐めしてから、こう語り始めた。 「……実はね、昔、ポンポンクリームを食べそびれたことがあるの。母さんが死んで、親戚の家に引き取られたばかりの頃、おばさんが知り合いからお土産にもらってきてさ。でも、その知り合いはあたしが居候していることを知らなくて、ポンポンクリームの数が一つ足りなかった。おばさんが自分の分をくれようとしたけれど、あたしは『いらない』って遠慮した。居候の身分で『食べたい』だなんて、言っちゃいけない気がして。本当はすごく食べたかったし……親戚の子どもたちが何も気にせず食べているのが、すごく羨ましかった」  ぎゅっと膝を抱え、寂しげに笑うエリス。  それを見つめ、クレアは唇を噛み締める。 (まさか、過去にそんなことがあったとは……だから、これほどまでにポンポンクリームに執着していたのか)  当時のエリスの気持ちを想像すると、クレアは胸が締め付けられて堪らなかった。  こんなに食べることが好きなエリスが遠慮するなんて……母を失い、親戚の家で上手く生きていかなければと、必死だったに違いない。  エリスが自嘲気味に笑いながら、こう続ける。 「ようやく自分一人で生きられるようになって、これからは食べたいものを好きなだけ食べて生きるぞーって思っていたけど……全部が全部、うまくいくわけないよね」  そして……深いため息をついてから、 「あーあ……ポンポンクリーム、食べたかったなぁ……」  震える声で、ぽつりと呟いた。  その表情は、笑みを浮かべてはいるが……  瞳には、今にも溢れそうな程の涙が溜まっていて。  その、泣くのを堪える子どものような顔を見て……  クレアの中で、強い感情が膨れ上がる。  それは、切なさと、使命感と、怒りが入り混じったような、言いようのない感情。  彼女の悲しみを、一つ残らず取り除きたい。  彼女のために、できる限りのことをしたい。  そのために、今すぐにでも動き出したい。  そんな、煮えたぎるような衝動。 「……お任せください」  クレアは、エリスの瞳を覗き込む。  そして、彼女の手をそっと掴むと、   「一日だけ、時間をください。この番犬が、必ずや……貴女にポンポンクリームをお届け致します」  強い決意を込めながら、真っ直ぐに、そう伝えた。  
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