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ステーキを完食し、『ベアンズミート』を後にしたエリシアは、再び別の店へと向かった。
そこは、王都でも指折りの人気を誇るケーキ店。
事前に予約をしていたのか、エリシアはケーキの箱をすぐに受け取ると、ご機嫌な様子で店を出て……
そのまま、魔法学院の敷地内にある女子寮へと帰っていった。
(ようやく帰宅したか……門限ギリギリだ)
すっかり暗くなった空を見上げ、クレアは息を吐く。
ここから、エリシアが就寝するまでしばらく待機だ。
エリシアの部屋は、寮の最上階である四階。
そのため、クレアは屋上で待機することにした。
エリシアの部屋の灯りが消えるのを、上から観察する。
そして、就寝した頃合いを見計らって彼女の部屋のバルコニーへ飛び降り、窓の鍵を開け栞を届ける、という寸法だ。
見たところ、寮のセキュリティはそれほど厳重ではない。
まもなく夕食の時間。寮にいる生徒たちは、みな一階の食堂へ集まる。
そのタイミングで屋上へ上がれば、見つかることはないだろう。
クレアは寮の裏にある木の上に隠れ、生徒たちが一階に集まったことを確認してから……
フックとロープを取り出し、寮の壁を垂直に登り始めた。
* * * *
――夜。
白い月明かりが、女子寮の窓を静かに照らす。
消灯時間を迎え、生徒たちは各々の部屋へ戻った。
エリシアも自身の部屋に戻ったことを、クレアは屋上から確認した。
あとは灯りが消え、寝静まるのを待つだけだ。
均等に並ぶ部屋の窓が、徐々に灯りを消していく。
エリシアの部屋も、予想より早くに灯りが消えた。
そうして、寮の部屋の全てが暗くなり、夜鳥の声しか聞こえなくなった頃――
(……そろそろ行くか)
クレアは、エリシアの部屋に降りるべく、動き出した。
屋上から顔を覗かせ、真下にあるバルコニーの位置を確認する。
フック付きのロープを手に、気配を殺し、クレアがそっと降りようとした――その時。
――ガラガラガラッ。
突然、エリシアの部屋の窓が開いた。
クレアは慌てて顔を引っ込め、様子を伺う。
(まさか、こちらの気配を察知したのか……?)
緊張しながら、クレアがじっと息を潜めていると……
「――誕生日おめでとう、あたし」
……という、エリシアの声が聞こえてきた。
クレアは、ハッと気が付く。
夜が更け、ちょうど日付が変わった。
エリシアの十七歳の誕生日が、訪れたのだ。
恐らく、日付が変わるまで起きていたのだろう。
クレアは鼓動を落ち着かせながら、彼女の様子に耳を傾ける。
「はい、これは母さんの分のケーキ。予約するの大変だったんだからね? それじゃ、いただきまーす」
そう言って、食器が鳴るような音と、「ん〜っ、うまっ」という幸せそうな声が続く。
(……母さん? ケーキ?)
エリシアの母親は、ずいぶん前に亡くなっている。
恐らくエリシアは二人分の誕生日ケーキを用意し、こうして亡くなった母に語りかけながら食べているのだろう。
「はぁ……王都のケーキ屋さんぜーんぶ回って食べ比べたけど、やっぱりこの店のが一番おいしい……軽くて甘い生クリームに、しっとりふわふわなスポンジ……そして、この甘酸っぱいルルベリー。もう、非の打ち所がないわ」
などと味の感想を零しながら、彼女はしばらく唸り、あっという間に「ごちそうさま」を告げた。
「ふぅ。誕生日なんだし、こんな時間にケーキ食べたって罪にはならないよね? どうせ誰にも祝われないんだもん、自分で自分を甘やかさなきゃ」
その声は、孤独を憂いているというよりも、体のいい言い訳を見つけた子どものように悪戯っぽいものだった。
そんな軽い口調のまま、エリシアが続ける。
「あーあ。あたしの夢が叶えば、こんな風にコソコソしなくても、好きな時に好きなものを好きなだけ食べられるのになぁ。そのためにここへ入学したのに……いくら勉強しても、なかなかその方法に辿り着かないのよね」
クレアには、その言葉の本意まではわからなかったが……彼女には"食"に纏わる何かしらの願望があり、それを実現させるために魔法学院へ入学した、ということだけは汲み取れた。
そして、
「誕生日か……母さんが作ってくれたケーキ、おいしかったなぁ」
ぽつりと呟いた、その言葉を最後に……
エリシアの声は、ぱたりと聞こえなくなった。
窓を閉めた様子はない。
ただ静かに、何かを思っているのだろうか?
祝ってくれる家族のいない誕生日に、たった独りで、ケーキを食べる。
それがどのような気持ちなのか、始めから家族のいないクレアには、うまく想像ができなかった。
だから、代わりにジェフリーのことを考えてみる。
誕生日を祝ってもらったことはなかったが、任務が成功した時には、よく豪華な食事をご馳走してくれた。
実際は、彼が酒を飲んで騒ぎたいだけだったのだろうけれど……
『でかしたぞ、クレア! 今日は好きなだけ食え!』
あの豪快な笑みが、もう見られないことを思うと……クレアの胸に、言いようのない空虚さが押し寄せた。
(もしかすると、エリシアも今……こんな気持ちなのだろうか?)
柔らかな夜風が、木々をさわさわと揺らす。
高く昇った月には雲がかかり、夜を一層暗く、深くした。
その月を、クレアが見上げていると、
「……やっぱりね」
ふと、エリシアが口を開いた。
「母さんの分のケーキは減らない……死んだ人間は、ケーキを食べられない。当たり前よね。だって、死んでいるんだから」
それは、先ほどまでの軽やかな口調ではなく……低く、重々しい声で。
「……人間は、死んだらそれでおしまい。幽霊もおばけも、天国も地獄もない。野に生きる動物みたいに、別の生き物の糧になることもなく、ただ消えてゆく」
その呟きを聞きながら、クレアは、ジェフリーが息絶えた時のことを思い出す。
火葬され、骨と灰だけになった彼の姿を思い出す。
「だから、生きている内に、やりたいことをやり遂げなくちゃ。あたしは、『今日もお腹いっぱい幸せだった』って思いながら毎日を生きたい。母さんの分まで、おいしいものをたくさん食べて、楽しく過ごしたい。そのためなら、できることはなんでもする。使えるものはなんでも使う。たった一度の、替えの利かない……あたしの人生だから」
その言葉を聞いた瞬間――
クレアの脳裏に、ジェフリーの笑顔が、はっきりと浮かんだ。
『使えるものは、なんでも使う』
今も耳に残る、ジェフリーの口癖。
エリシアに父親の記憶があるのかはわからないが、二人が間違いなく親子であることを、クレアは思い知らされた。
そして、エリシアは明るい口調で、こう続ける。
「……ということで、このケーキはあたしがいただくね。『死人に口なし』。だから、これは今生きているあたしが食べる。食べて、明日を生きる糧にする。……それでいいよね? 母さん」
最後は、少し切ない声にも聞こえたが……
その後すぐに、「いっただっきまーす!」という嬉しそうな声と、「ん〜っ」という幸せそうな唸り声が聞こえ……
クレアは思わず、笑みを浮かべた。
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