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一方、その頃。
エリスの生み出した蒸気に巻かれ、知らぬ間にレースから外れた路地に迷い込んだシルフィーは……
……目の前に広がる大海原に、涙を流していた。
「な、なんで……なんで海に来ちゃったのぉおっ?!」
地面に膝を付き、泣き崩れるシルフィー。
おかしい。坂の上にある街役場を目指していたはずなのに……いつの間に港に来ていたのか。
(嗚呼、私って本当に駄目人間……このまま海に身投げして、サメのご飯にでもなった方がまだマシなのでは……?)
いつもなら、そのままグズグズとネガティブスパイラルに陥る彼女だが、今回は違った。
エリスに言われた言葉が、脳裏を過ぎったからだ。
『あんたが優秀だろうがゴミだろうが関係ない。食事は、命を貰う尊い行為なの』
……そうだ。私ってばまた命を軽んじた考え方をしていた。
こんな風に嘆いていても状況は変わらない。そもそも、海に飛び込む勇気なんてないし……
誰かに道を聞こう。
そして、街役場まで全力で走ろう。
こんな私でも、できることがあるかもしれない。早くレースに戻って、クレアさんとエリスさんに合流しなくちゃ。
シルフィーは顔を上げ、涙を拭い、港を見回す。
すると、ちょうど船着場の先に馬車が停まっているのを見つけた。街中を行き来している乗合馬車だ。
シルフィーは駆け寄り、馬をブラッシングしている御者らしき男に声をかける。
「すみません! 街役場にはどうやって行ったらいいですか?」
「街役場……なら、この先の三本目の角を右に曲がって、しばらく進んだら三叉路に当たるから、真ん中の道を行く。さらに、二本目の角を左に行って、またすぐ右に……」
……と、つらつらと教えられるが、ダメだ。もうこの時点で脳内迷子になっている。
シルフィーは悩んだ。
よくよく考えたら、道を教えられたところで結局迷うのが私だ。今までだってそうだったのだから。
では、どうすれば良いか。最も確実なのは、誰かに目的地まで連れて行ってもらうことである。
となると、今回の場合は……
この馬車の客になり、お金をかけて役場まで連れて行ってもらうことになるわけだが……
「…………っ」
シルフィーは、葛藤する。
この仕事に就くことになった時、心に決めたことがあった。
これまでの人生、家柄やお金に頼ってばかりだったから……治安調査の仕事だけは、なるべくお金に頼らず、自分の足で頑張る、と。
しかし、今のこの状況下でそんなことは言っていられない。
治安の悪化が見込まれるイリオンの調査報告。これこそが今、シルフィーが成すべき重要な仕事だ。
その調査のために、なんとしてでも二位になる必要がある。
(つまらないプライドは捨てるのよ、シルフィー……今はお金を使ってでも、レースに戻らなくちゃ……!)
……よし。
シルフィーは決意すると、
「……あの!」
いまだ道のりの説明を続ける御者の声を遮るように顔を上げ、
「お、お金払うので……役場まで、馬車で乗せて行っていただけないでしょうか?」
はっきりと、そう言った。
すると、御者は少し驚いた顔をしてこう返す。
「いいけど……今日は年に一度のお祭りがあって、役場前の通りはレースで封鎖されているんだ。少し遠回りになるよ?」
「構いません! と言うより、私がそのレースの参加者なのです! お恥ずかしい話ですが、道に迷ってしまいまして……だから、一刻も早くレースに復帰しなければならないのです!!」
その言葉に、御者は……
さらに驚いた様子で、ぱちくりと瞬きをして。
「それって…………馬車使ったら、失格になっちゃうんじゃないの?」
「…………………………」
……し、
(しまったぁぁあああっ! 私ったらなに余計なことまでベラベラと!!)
シルフィーは頭を抱え、大パニックに陥るが……
その時、彼女の中で何かが、プツンと切れた。
そして、シルフィーは顔に影を落としながら、
「……お金ならあります。ほら、こんなに」
ジャラ、と金貨がたんまり入った袋を懐から取り出し、御者に詰め寄る。
「役場の近くで降ろしてくれるだけでいいんです……通常の運賃の五倍の額をお支払いしますから……このことは、どうかご内密に……」
その目は、完全に闇落ちした者のそれだった。
精神的に追い詰められた結果、もう使える金は全部使ってやろうと、完全に吹っ切れたのだ。
不正への協力を持ちかけられた御者は、後退りをしつつも……
「ごくっ」と喉を鳴らし、パンパンに膨らんだその袋を、じっと見つめるのだった。
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