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『人間は、死んだらそれでおしまい』
『だから、生きている内に、やりたいことをやり遂げなくちゃ』
『たった一度の、替えの利かない……あたしの人生だから』
それは、物心がつく前から生き方を決められていたクレアにとって、考えたことすらない人生観だった。
この命は国の為にあるのだと信じて疑わず、軍に忠義を尽くし、上司の命令に従い行動してきた。
そこに、私情は一切介入させない。
と言うより、自分の意志や欲が湧くことすらないように育てられてきた。
それなのに……ジェフリーの娘は言う。
『あたしは、「今日もお腹いっぱい幸せだった」って思いながら毎日を生きたい。母さんの分まで、おいしいものをたくさん食べて、楽しく過ごしたい』
そうか……そんな生き方もあるのか。
この命を、自分のために使うという生き方が。
しかしそれは、"やりたいこと"を抱ける自由な人生を持つ者の考え方だ。
俺には、命令に背いてまでやりたいことも、軍を離れる自由もない。
けれど、もし、そんな人生を生きることができたなら……
俺は、どんな人間になっていただろう?
「…………」
そんな答えのない問いに、クレアが思いを巡らせていると……
「そういえば……毎年届いていたミルガレッタの花、今年はさすがに来ないかなぁ。母さんが、『あれは絶対父さんがこっそり置いていってるのよ』って言ってたけど……直接会ったことないし、あたしは寮に入っちゃったし、本当に父さんだったとしても、ここまで届けるのは無理があると思うんだよね」
というエリシアの声が聞こえ、クレアはドキッとする。
ジェフリーは、自分からの贈り物であることがバレないように花を届けているつもりだったようだが……
(元奥さんにはしっかりバレていましたよ、ジェフリーさん)
なんて苦笑していると、エリシアが動く音がした。
どうやら、部屋からバルコニーへ出て来たらしい。
夜風にでも当たっているのだろうか。
それとも、月を眺めている?
何にせよ、彼女が眠るまでクレアは動けない。
引き続き、エリシアが部屋に戻るのをじっと待っていると……
――ぴちゃ……っ。
……という、湿っぽい音と共に。
「……ん……」
……という、エリシアの鼻にかかった声が聞こえてきて。
(…………え?)
クレアは、疑問に思い……
屋上からそっと顔を覗かせ、エリシアがいるバルコニーを覗き込んだ。
すると……
エリシアは、長いまつ毛を伏せ――
宙を舐めるように、舌を、突き出していた。
それを目にしたクレアは、ますます困惑する。
まるで、見えないキャンディーを舐めているようなエリシアの動き。
これは一体……何をしているんだ?
……そう思う一方で、
「………………」
クレアは……彼女の奇行から、目が離せなくなっていた。
なにかを求めるように彷徨う、柔らかな桃色の粘膜。
それが、雲間から覗く月明かりに照らされ、ぬらぬらと光っている。
時折聞こえる、くちゅっという湿った音が、耳の辺りに纏わりつくようで……
クレアの背筋が、ゾクゾクと疼く。
授業中、優等生な答えを紡いでいた、彼女の舌。
放課後、幸せそうにステーキを味わっていた、彼女の舌。
そして今、独りきりで胸の内を吐露していた、彼女の舌……
人に見せることなど決してない、無防備な粘膜を。
ここで見ている人間がいるとも知らずに、こんな風に突き出して……
嗚呼、なんて……なんて…………
…………情欲をそそる光景だろう。
……と、そこまで考えて。
クレアはふと、我に返る。
(……何を考えているんだ、俺は……相手はジェフリーさんの娘だぞ? それに、任務でもないのにこんな……こんな劣情を抱くなんて)
と、自身の中に湧き起こった感情に慌てて蓋をする。
それと同時に、エリシアも舌を引っ込め、
「うーん……やっぱりなんか匂うのよね。この味と匂いの正体さえわかれば……」
などとぶつぶつ呟きながら、小首を傾げた。
そして、納得いかない様子で部屋の中へと戻り……
窓を閉め、そのまま、静かになった。
(……何だったんだ、今のは)
クレアは、息を吐きながら脱力する。
本当に意味がわからない。空中を舐め、何かの味を探っているようにも見えたが……
彼女を真似して、周囲の匂いを嗅ぎ、少し舌を出してみるが、クレアには何も感じられなかった。
その疑問もさることながら、クレアは、自身の中に湧き起こった感情の方に戸惑っていた。
任務の標的に近付くため、女性を誘惑することなど何度もあった。
逆に、情報を渡す交換条件として、色事を求められた経験もある。
クレアにとって情欲は、任務に利用する手段の一つであり、自分の意志で制御可能な道具でしかなかった。
それなのに、今……
エリシアの奇行を目の当たりにし、任務とは無関係の劣情を抱いてしまった。
これは……所謂、アレか?
俺に、そういう類いの性癖がある、とか?
(いや……いやいやいや。そんなはずはない。そんなはずは……)
……と、屋上に這いつくばりながら悶々と葛藤していると……
いつの間にか、空が白んできていた。
もうすぐ、朝日が昇る時間だ。
(まずい……早く栞を届けなければ……!)
クレアは慌てつつもしっかり気配を殺し、エリシアの部屋のバルコニーへ降りる。
幸運なことに、窓の鍵は開いたままだった。
部屋の中の気配を探り、クレアはエリシアが眠っていることを確信する。
そして、意を決して……
彼女の部屋に、足を踏み入れた。
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