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クレアは目を閉じ、エリスの首筋に鼻を近付ける。
瑞々しい果実のような、甘酸っぱい香りのする肌。
ふわりと石鹸の香りが漂う髪。
嗚呼、なんて香しい。
息を吸うたびに、脳が痺れるようだ。
首筋にかかる彼の息遣いに、エリスはこそばゆそうに身体を捩る。
しかし、両肩を押さえられているため、大した抵抗にはならなかった。
「ばっ、ばかっ……汗かいてるからダメ……っ」
弱々しく抗議する彼女の顔を、クレアは首筋に鼻先を埋めたまま、ちらっと盗み見る。と……
エリスは目に涙を浮かべ、恥ずかしさに打ち震えていた。
(……可哀想に。こんなに顔を赤くして。でも…………その顔が、もっと見たい)
狭い穴の底で荒い呼吸を繰り返しているせいか、はたまた彼女の匂いに興奮しすぎているせいか……あるいは、その両方か。
クレアは、彼女の匂いを嗅ぐ度に、思考がぼうっと霞んでいくのを感じた。
全くやめる気配のないクレアに、エリスは再度抗議する。
「も……もういいでしょ? あんたがあたしを騙していないことはわかったから……犬みたいに嗅がないで……っ」
「えぇ。私の身の潔白は充分に証明できたでしょう。なので、今は……趣味の時間として、貴女の香りを嗜んでいます」
「はぁ?!」
声を上げるエリスに構わず、クレアはもう一度ゆっくり息を吸い、
「…………いい匂い」
まるで、うわ言のように、
「エリスの匂い……たまらなく好きです。このままずっと……嗅いでいたい」
そんなことを、呟いた。
それに、エリスは……
「…………っ」
耳まで真っ赤にして、クレアの胸をドンッと突き放した。
そして、羞恥に潤んだ瞳で彼を睨み付け、
「もう……あたしばっかり恥ずかしい思いして、耐えられない……っ」
言って、クレアのシャツをぎゅっと掴むと、
「あたしだって……クレアの匂い、けっこう好きなんだから! お返しに、くんくん嗅いでやる!!」
ぷるぷる震えながら、そんなことを叫んだ。
瞬間、クレアは理解できず、暫し固まり……
「…………え?!」
エリスと同じくらいに、頬をボッと染めた。
「な、ななな、何を言って……俺の匂いが、好き……?!」
「そーよ! こないだの洞窟で、あんたの腕で眠った時、その……い、いい匂いだなって思ったのっ!」
「えぇぇえ?! いや、ですが、それこそ今は汗と埃まみれで……!」
「いいから……っ!」
――ぐいっ。
……と、エリスは、クレアの胸ぐらを掴んで引き寄せ、
「……いいから、嗅がせなさいよ……あんたばっかり、ズルいわ」
恨めしそうに、そう言うので……
思いがけない反撃に大いに狼狽しながら、クレアはゴクッと喉を鳴らした。
* * * *
──ちょうどその頃、地上では。
「ここを真っ直ぐ行けば、すぐに街役場だよ」
馬の嘶きと共に、馬車が停まった。
扉が開き、座席から降りてきたのは……レース中に迷子になり、乗合馬車でゴール付近までやってきた、シルフィーである。
シルフィーは一度振り返ると、
「ありがとうございます。こちら、約束の品です」
金貨で膨らんだ革袋を、ずしっと御者に渡した。
その重みを確かに感じ取った御者は、
「へへ、毎度あり。レース、頑張ってな」
人の悪い笑みを浮かべてから、馬車を走らせ去って行った。
それを見届けながら、シルフィーは……罪悪感に頭を抱え、一人唸る。
(ああぁ、やってしまった……レース中に馬車を使うこと自体不正行為なのに、それをお金で口止めするだなんて……ううん、これは初仕事を成功させるために必要なこと。とにかく今はレースに復帰しなくちゃ!)
と、自分に無理矢理言い聞かせ、御者に言われた通りに道を進み始めた。
程なくして、頂上祭のコースである『うみねこ商店街』の通りに出た。
やった。ついに戻ってきた。
しかし……今、レースの経過はどのようになっているのだろう?
一抹の不安を抱きながら、街役場を目指し坂を上って行くと……
「おっ?! あれは……キターーっ! 魔導少女チームの三人目!! 穴に落ちた二人が一向に出てこない中、ついに最後の希望が現れたぁぁっ!! これで優勝は決まりだぁぁああっ!!!」
ゴールテープの向こうで待ち構える運営スタッフが、シルフィーの姿を見つけた瞬間にテンションを爆発させて叫んだ。
それに呼応するようにして、役場前の広場を囲う観客たちも大いに湧き上がる。
盛大な拍手に迎えられる中、シルフィーはきょろきょろ周囲を見回し、
「え……つまり、私が……一番乗りってこと?」
ゴールテープは張られたまま。
その向こう側に、エリスや他のチームの姿もない。
これは……最高のタイミングで戻ってこられたのかもしれない。
(くぅうっ、お金とプライドと良心を捨てた甲斐があった……! このまま他のチームがゴールするのを待って二位で入賞すれば、投網がゲットできる……!!)
と、シルフィーは達成感に胸を震わせるが……
ふと、今の実況を思い出し、首を傾げる。
「…………穴に落ちた二人??」
ふと見れば、坂を登りきった広場の入り口付近の地面に、ぽっかり黒い穴が空いている。
まさか、この中に……あの二人がいるというのか?
「ああっと!? ここで後方に自警団チームが現れた! ラストスパート! もの凄い勢いで駆け上がってくるぅうっ!!」
突如響いた実況に、シルフィーが振り返る。
すると、筋肉質な男たちが必死の形相でこちらへ駆けて来ていて、
「一位の栄光は我らに……! 我々の力を見せつけ、住民の安心と信頼を勝ち取るのだっ!!」
などと声を上げ、一位になる気満々のご様子である。
なんとありがたい。優勝は彼らに譲り、その後にするりと二位になってやろう。
シルフィーは目的の達成を確信し、ほっと胸を撫で下ろす。
そして、自警団チームの到着までに少し時間がありそうだったので……
例の穴に近付き、そっと中を覗き込み、
「……エリスさーん、クレアさーん……大丈夫ですかぁー……?」
恐る恐る、呼びかけてみた──
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