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気持ちいいこととアンリの秘密
アンリは毎日旧図書室へと、せっせと通った。
一度レオナードに、友人の二人もこちらへ呼んでいいかと提案してはみたのだ。だいぶ渋い反応をされたので、なかったことにした。アンリは、嬉しいような不満なような、不思議な気持ちだ。
(僕なんかのこと、どうしてこんなに気にしてくれるんだろう)
二人きりで勉強していると、心が安らぐような、ざわめくような、不思議な気持ちになった。レオナードは時折アンリを熱心に見つめ、その視線を受けるたびに、アンリはどうすればいいのか分からなくなる。
「殿下は、どうして僕を見るんですか」
「見たいからだ」
レオナードの口調は、すっかり砕けていた。彼はアンリの前では姿勢を崩し、凛とした立派な王子様をやめる。
それが自分の前でだけならいいのに、と、アンリは密かに思っていた。
「もうすぐ夏だな」
レオナードがシャツのボタンを緩める。確かに、最近は気温が上がってきた。
「そうですね」
アンリもぱたぱたと、手で顔を仰ぐ。制服のネクタイを緩めてボタンを開けようとすると、レオナードの「待て」という制止がかかった。
「待て」
まるで言うことを聞かない犬に命令するように、彼は低い声を出す。アンリはぴたりと手を止め、「どうしてですか」と不満の声を上げた。
「僕だって暑いんです」
「お前はダメだ」
そう言って、レオナードはぶつぶつと何事かを呟いた。途端にアンリの周りに微風が吹く。おお、とアンリは感嘆の声を上げた。
「いい風ですね。気持ちいいです」
「そうだろう」
そよそよと吹く風が気持ちよくて、うっとりする。そのアンリを前に、レオナードは仏頂面だ。
「何かあったんですか」
首を傾げるアンリに、レオナードは「何もない」と言う。しかしその目は、アンリの喉元に釘付けになっていた。何かついているのかと、喉から鎖骨にかけてぺたぺたと触れてみる。何もない。
「何かついているんですか?」
んー、と、顎を少し上げてレオナードによく見せる。アンリの死角で、レオナードの喉仏が、大きく上下した。彼は無言でアンリの白い喉仏を凝視し、「何もない」と、指を伸ばした。
その無防備な首筋に、彼の手がかかる。その熱さがくすぐったくて、アンリはわずかに声を上げた。
「ん、む」
しっとりと濡れた、お互いの皮膚の感触。彼の指がアンリの首筋をなぞる。その白い喉仏のふくらみを彼の親指が撫で、後頭部の生え際を、彼の人差し指がくすぐった。自分の血管の脈動が、いやに大きく響く。
(これって、ちょっとよくない、気がする)
そわそわしながら彼に視線を向けると、怖いくらいの無表情だった。ひ、とアンリが息をのむと、ぱっと手が離れる。
「悪い」
その紫の瞳が爛々と輝いていて、アンリは少し怖くなった。だけどこれの続きへの好奇心は、その恐れをはるかに上回っている。
「も、もっと……」
恐る恐る頭を差し出すと、ぱん、と彼に両方の頬を挟まれた。レオナードは首を横に振る。
「これ以上はいけない」
「で、でも、気持ちよくて」
そわそわしながらねだる。彼は深く息を吐き、目を見開いた。
「わざとか?」
「なにがですか?」
本当に、分からない。アンリが首を傾げると、ピアスがしゃらんと彼の指に引っかかる。
「あ」
今度は、耳がぞわぞわした。これまで感じたことのない気持ちよさにうっとりしていると、ぱっと彼の手が離れる。
「……俺以外に、触らせるなよ」
レオナードが、これまで聞いたことがないくらい、低い声で言う。さらに念押しするように、顎を引いてアンリを睨みつけた。
「絶対にだ」
アンリは、とりあえず頷く。だけど、確かにその通りだとも思った。
「僕も、あなた以外に触られるのは、嫌です」
その瞬間、彼は手で顔を覆った。絶対わざとだろ……と声を絞り出す彼がなんだか、哀れな生き物に見える。
「わざとじゃないですよ」
しかし彼は手負いの獣のように、アンリを疑い深い目で見ていた。結局すぐに勉強会はお開きになり、アンリはとぼとぼと自室へ帰る羽目になった。
(何か、しちゃったのかな)
アンリは風呂上がりに、窓を開けて涼んでいた。外は月も雲もなく、星が綺麗な夜だ。風に当たっていると、だんだん気持ちも明るくなってくる、気がする。
にゅ、と突然、窓の下から手が生えた。アンリはそれに悲鳴も上げず、後ろへとさがる。
音もなく、ベレット侯爵家からの使者がアンリの部屋に忍び込んだ。「報告」と低く囁く彼を前に、アンリは無表情に踵を揃える。
「対象と接触。引き続き関係を深め、隙を伺って目的を達成する」
「またそれか」
簡潔な報告へ苛立ったように言う彼に、アンリは「全く近づけないよりはマシだろう」と反論した。
「そもそも僕なんかが、高貴な人の暗殺なんて大きな仕事を、できると思う?」
使者は黙り込む。アンリは、皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「できるわけないって、あなたたちも分かってるくせに」
「うるさい。閣下のお考えに従え!」
アンリは、呆れて首を横に振る。この男も内心は、アンリと同じ意見だろうことは分かっていた。
「なんで、無能のお前なんかが、閣下にかわいがられているんだ」
彼はぶつぶつ呟きながら、アンリを睨んだ。アンリにだって、あんな男にかわいがられているつもりは、ない。
睨み返せば、彼は舌打ちをする。
「……せめて、お前が考案した魔術理論を送れ」
「ハンカチの洗濯回数を減らすあれ?」
「侯爵閣下が報告しろとのことだ」
彼はつま先で床を叩きつつ、アンリに対して顎をしゃくった。
「早くしろ」
しぶしぶ、アンリは書き溜めていた魔術理論のメモを渡した。内容はすべて頭に入っているため、紙はなくても構わない。
彼はぱらぱらと手渡されたメモを見て、呆れたように言った。
「どうして、閣下はこんなものをお褒めになるのだ」
ぐっと唇を噛む。アンリがどれだけ周りから馬鹿にされようと、ベレットだけは違った。彼だけは、アンリ自身を評価していた。
たとえアンリを鞭で打ち据え、虐げていようと、彼はアンリの存在価値を認めていた。それは周りから見れば、ちぐはぐな愛情に見えたかもしれない。
(悔しいなあ。あんな奴に認められて、嬉しくなるなんて)
「それから、閣下からだ」
そう言って、使者はアンリに小包を渡す。中身は、確認せずとも分かっていた。
「遅めの誕生日祝いだそうだ。遅くなってすまない、と仰っていた」
吐き捨てるように彼は言う。アンリは黙ってそれを受け取り、小さく頷いた。
それよりも先に、使者はさっさとアンリに背中を向ける。彼は来た時と同様、窓から去っていった。アンリは彼が飛び去ると同時に、乱暴にそこを締める。鍵をかけ、ベッドの上で蹲った。
(どうして僕は、毎年、これを拒めないんだろう)
春になると、侯爵はいつもアンリに、菓子を贈った。それが楽しみな自分が浅ましくて、恥ずかしくて、アンリは荷物を放り出して膝を抱え込む。
いつから、こういう風に祝われているんだっけ。生まれてからずっとだったような気がするし、あるいは母が亡くなってからのような気もする。
(最初に、プレゼントをもらったのは……)
アンリの意識が、くらりと睡魔に手を引かれる。暗く閉じていくアンリの瞼の裏に、優しい両親の姿が映った、気がした。
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