気持ちいいこととアンリの秘密

1/1
前へ
/28ページ
次へ

気持ちいいこととアンリの秘密

 アンリは毎日旧図書室へと、せっせと通った。  一度レオナードに、友人の二人もこちらへ呼んでいいかと提案してはみたのだ。だいぶ渋い反応をされたので、なかったことにした。アンリは、嬉しいような不満なような、不思議な気持ちだ。 (僕なんかのこと、どうしてこんなに気にしてくれるんだろう)  二人きりで勉強していると、心が安らぐような、ざわめくような、不思議な気持ちになった。レオナードは時折アンリを熱心に見つめ、その視線を受けるたびに、アンリはどうすればいいのか分からなくなる。 「殿下は、どうして僕を見るんですか」 「見たいからだ」  レオナードの口調は、すっかり砕けていた。彼はアンリの前では姿勢を崩し、凛とした立派な王子様をやめる。  それが自分の前でだけならいいのに、と、アンリは密かに思っていた。 「もうすぐ夏だな」  レオナードがシャツのボタンを緩める。確かに、最近は気温が上がってきた。 「そうですね」  アンリもぱたぱたと、手で顔を仰ぐ。制服のネクタイを緩めてボタンを開けようとすると、レオナードの「待て」という制止がかかった。 「待て」  まるで言うことを聞かない犬に命令するように、彼は低い声を出す。アンリはぴたりと手を止め、「どうしてですか」と不満の声を上げた。 「僕だって暑いんです」 「お前はダメだ」  そう言って、レオナードはぶつぶつと何事かを呟いた。途端にアンリの周りに微風が吹く。おお、とアンリは感嘆の声を上げた。 「いい風ですね。気持ちいいです」 「そうだろう」  そよそよと吹く風が気持ちよくて、うっとりする。そのアンリを前に、レオナードは仏頂面だ。 「何かあったんですか」  首を傾げるアンリに、レオナードは「何もない」と言う。しかしその目は、アンリの喉元に釘付けになっていた。何かついているのかと、喉から鎖骨にかけてぺたぺたと触れてみる。何もない。 「何かついているんですか?」  んー、と、顎を少し上げてレオナードによく見せる。アンリの死角で、レオナードの喉仏が、大きく上下した。彼は無言でアンリの白い喉仏を凝視し、「何もない」と、指を伸ばした。  その無防備な首筋に、彼の手がかかる。その熱さがくすぐったくて、アンリはわずかに声を上げた。 「ん、む」  しっとりと濡れた、お互いの皮膚の感触。彼の指がアンリの首筋をなぞる。その白い喉仏のふくらみを彼の親指が撫で、後頭部の生え際を、彼の人差し指がくすぐった。自分の血管の脈動が、いやに大きく響く。 (これって、ちょっとよくない、気がする)  そわそわしながら彼に視線を向けると、怖いくらいの無表情だった。ひ、とアンリが息をのむと、ぱっと手が離れる。 「悪い」  その紫の瞳が爛々と輝いていて、アンリは少し怖くなった。だけどこれの続きへの好奇心は、その恐れをはるかに上回っている。 「も、もっと……」  恐る恐る頭を差し出すと、ぱん、と彼に両方の頬を挟まれた。レオナードは首を横に振る。 「これ以上はいけない」 「で、でも、気持ちよくて」  そわそわしながらねだる。彼は深く息を吐き、目を見開いた。 「わざとか?」 「なにがですか?」  本当に、分からない。アンリが首を傾げると、ピアスがしゃらんと彼の指に引っかかる。 「あ」  今度は、耳がぞわぞわした。これまで感じたことのない気持ちよさにうっとりしていると、ぱっと彼の手が離れる。 「……俺以外に、触らせるなよ」  レオナードが、これまで聞いたことがないくらい、低い声で言う。さらに念押しするように、顎を引いてアンリを睨みつけた。 「絶対にだ」  アンリは、とりあえず頷く。だけど、確かにその通りだとも思った。 「僕も、あなた以外に触られるのは、嫌です」  その瞬間、彼は手で顔を覆った。絶対わざとだろ……と声を絞り出す彼がなんだか、哀れな生き物に見える。 「わざとじゃないですよ」  しかし彼は手負いの獣のように、アンリを疑い深い目で見ていた。結局すぐに勉強会はお開きになり、アンリはとぼとぼと自室へ帰る羽目になった。 (何か、しちゃったのかな)  アンリは風呂上がりに、窓を開けて涼んでいた。外は月も雲もなく、星が綺麗な夜だ。風に当たっていると、だんだん気持ちも明るくなってくる、気がする。  にゅ、と突然、窓の下から手が生えた。アンリはそれに悲鳴も上げず、後ろへとさがる。  音もなく、ベレット侯爵家からの使者がアンリの部屋に忍び込んだ。「報告」と低く囁く彼を前に、アンリは無表情に踵を揃える。 「対象と接触。引き続き関係を深め、隙を伺って目的を達成する」 「またそれか」  簡潔な報告へ苛立ったように言う彼に、アンリは「全く近づけないよりはマシだろう」と反論した。 「そもそも僕なんかが、高貴な人の暗殺なんて大きな仕事を、できると思う?」  使者は黙り込む。アンリは、皮肉げに唇の端を吊り上げた。 「できるわけないって、あなたたちも分かってるくせに」 「うるさい。閣下のお考えに従え!」  アンリは、呆れて首を横に振る。この男も内心は、アンリと同じ意見だろうことは分かっていた。 「なんで、無能のお前なんかが、閣下にかわいがられているんだ」  彼はぶつぶつ呟きながら、アンリを睨んだ。アンリにだって、あんな男にかわいがられているつもりは、ない。  睨み返せば、彼は舌打ちをする。 「……せめて、お前が考案した魔術理論を送れ」 「ハンカチの洗濯回数を減らすあれ?」 「侯爵閣下が報告しろとのことだ」  彼はつま先で床を叩きつつ、アンリに対して顎をしゃくった。 「早くしろ」  しぶしぶ、アンリは書き溜めていた魔術理論のメモを渡した。内容はすべて頭に入っているため、紙はなくても構わない。  彼はぱらぱらと手渡されたメモを見て、呆れたように言った。 「どうして、閣下はこんなものをお褒めになるのだ」  ぐっと唇を噛む。アンリがどれだけ周りから馬鹿にされようと、ベレットだけは違った。彼だけは、アンリ自身を評価していた。  たとえアンリを鞭で打ち据え、虐げていようと、彼はアンリの存在価値を認めていた。それは周りから見れば、ちぐはぐな愛情に見えたかもしれない。 (悔しいなあ。あんな奴に認められて、嬉しくなるなんて) 「それから、閣下からだ」  そう言って、使者はアンリに小包を渡す。中身は、確認せずとも分かっていた。 「遅めの誕生日祝いだそうだ。遅くなってすまない、と仰っていた」  吐き捨てるように彼は言う。アンリは黙ってそれを受け取り、小さく頷いた。  それよりも先に、使者はさっさとアンリに背中を向ける。彼は来た時と同様、窓から去っていった。アンリは彼が飛び去ると同時に、乱暴にそこを締める。鍵をかけ、ベッドの上で蹲った。 (どうして僕は、毎年、これを拒めないんだろう)  春になると、侯爵はいつもアンリに、菓子を贈った。それが楽しみな自分が浅ましくて、恥ずかしくて、アンリは荷物を放り出して膝を抱え込む。  いつから、こういう風に祝われているんだっけ。生まれてからずっとだったような気がするし、あるいは母が亡くなってからのような気もする。 (最初に、プレゼントをもらったのは……)  アンリの意識が、くらりと睡魔に手を引かれる。暗く閉じていくアンリの瞼の裏に、優しい両親の姿が映った、気がした。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加