1 いなり蒲生

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1 いなり蒲生

「はぁ、今日もお客さん来ないね」  ため息をついて、店先から通りを眺めているのは、いなり蒲生(がもう)の看板娘である、蒲生 有咲(がもう ありさ)だ。  本日既に何度目か分からないため息をつく。 「仕方ないですよ。お嬢さん。最近はコンビニでもいなり寿司なんて売ってるしね。寿司に比べたら地味だし。それに、一番の理由はオレの腕、なんでしょうね」  いなり蒲生の若き店主、松風 翔太(まつかぜ しょうた)も項垂れる。 「松風さんのせいじゃないですよ。だって松風さんのいなり寿司、日本一、いや、世界一美味しいもん」  励ますように元気に言ったものの、お客が来ないのは問題だった。  有咲の祖父が始めた稲荷屋のいなり寿司は、当時はごちそうだったようで人気があった。  有咲の両親は去年、突然の事故で亡くなった。  酔っぱらい運転であった事が後から分かった。    両親が亡くなって一年が経ち、祖父は自分の弟子となり、長年いなり蒲生で働いている松風翔太を跡取り店主とした。  孫娘の有咲と5才差の翔太の年頃がちょうど良く、二人の仲が良かったからかも知れない。  祖父が跡取りとして翔太を選んだことは、有咲としても不服はない。  翔太は祖父が信頼するほど、美味しくいなり寿司を作ることができた。  通りを顔見知りの女性が歩いている。 「千代さーーーーん! いなり寿司どう?」  店先から、有咲が声をかける。  千代は芸子衆の女将で若いお弟子さんを何人も抱えている。  若いお弟子さんたちの腹ごしらえのために、大きな折でいなり寿司を買ってくれる、いなり蒲生の常連だった。  笑顔で有咲に手を振った女将さんが店先にやって来る。 「有咲ちゃん。ちょうど折を一つ頂いて行こうと思ってねぇ。そうさね、今日は20個入りを一折いただこうかね、普通のを5個、五目を5個、ゆかりを5個 、青紫蘇漬を5個ね」 「はーい」  元気よく有咲が返事をし、注文を聞いていた翔太が手を洗って、いなりを開き、酢飯を詰めていく。  手際よく、あっという間に20個のいなり寿司を作り、折に詰めた。 「お待たせしました」  笑顔で折を渡す有咲に、千代が耳打ちする。 「相変わらずいい男だねぇ。翔太くん。有咲ちゃん、あんたたち、いつ結婚するんだい?」 「千代さんってば、もぅ。私たち、そんなんじゃないから」  真っ赤になって否定する有咲に、千代は笑いながらお会計を済ませて言った。 「今日は鎮守様の前祭りだから、遊びに行ってみたら? 祭りの日に願い事をすると神さまに気に入られて、叶うらしいわよ」
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