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こりんさん
「井口様、この度は御来店、ありがとうございます。御指名いただきました、こりんです。関様の御紹介ですね。よろしくお願いいたします」
還暦近くのこの歳になって、リラグゼーションサロンに初めて入った。
ソファに座っている僕の前に跪いたのは、こりんさん。ブラウンの施術着を着た小柄な若い女性だった。短い髪と垂れた目が可愛い。そして、部屋に入ってくるなりずっと嬉しそうなその表情。
「こちらこそよろしく。こりんさん、なんか嬉しそうですけど」
「すいません。すぐ顔に出ちゃうんです。今まで控室でナイター観てたんですけど、大山選手がホームラン打って、阪神逆転サヨナラです」
野球好きなのね、ははは。
サロンが用意してくれたガウンに着替えた僕は、彼女に言われる通り、施術ベッドにうつぶせになって寝た。
こりんさんはまず足から揉み始めた。
「いい気持ちです」
「ふふ。あの、井口様は関様のお友達でらっしゃる」
「うん。ずっと、小学校から大学まで一緒。私立だったんで」
「わあ。すごい」
関と僕は、小学校で同じクラスになって以来の友人だった。大学も同じ経営学部。卒業後しばらくして、関はアパレルメーカーを、僕はリサイクル企業を創業した。どちらも今は、上場企業だ。
「ずっとお二人、ラグビーをされてたと伺ってます」
「そんなことまで」
高校、大学とラグビーをしていた僕たちは、関がチームの要のナンバーエイト、小柄な僕が、彼の後ろで機敏に動くスクラムハーフを任せられていた。
「すごい、すごい。すごい、お二人」
「そんなに褒められると」
「それでお二人とも、会社を作られて」
「ははは。まあ。あの、僕の事、こりんさんはご存じ?」
「勿論です。すごいです」
リップサービスだとしても関との仲を褒められるのは、嬉しいもんだ。
「井口様、野球に御興味は?」
「様はやめて。さんで」
「あ、はい。井口さん」
「僕、東京なんでね。子供の頃はみんなが好きだったあの球団のファン。毎日テレビ中継してたからね」
「ああ、そうだったんですね」
「でも、江川事件ですっかり嫌になっちゃって」
突然、足を揉んでいたこりんさんの手が止まった。どうした?
「こりんさん?」
「ひどい話、ですよね。江川さんの事件、井口さんはどう思われますか?」
え?
僕は記憶を手繰った。中学校の頃の事だ。
あ、結構覚えてる。
時は、1978年11月21日。
事の中心人物は神童と呼ばれた投手、江川卓。
高卒時にドラフトに掛けられるも、大学進学を望み拒否、大学卒業時に再度ドラフトに掛けられるも、在京球団への入団を希望し野球浪人していた彼は、三度目のドラフトに掛けられようとしていた。
ところが、この日、僕のファンだったチームが突然、江川卓の入団を宣言した。前回のドラフトの交渉権を持っていたのは別の球団だったけれど、その期限が来て、次のドラフトを翌日に控える「空白の一日」を使った策だった。でも、当然そんな横暴が許される訳がない。球団も江川本人も叩かれた。そして、僕はこの球団が嫌いになり、野球にも興味を失った。
「どう思われますか?井口さん」
「あ。うん」
僕は考えた。
「江川卓は大学を卒業したばかりの若者です。大人たちの複雑なやり取りなんてわからない。彼は、在京球団に、できれば意中の球団に入りたかった。それだけだった」
「井口さんが当時ファンだった球団ですね」
「ええ。当時はドラフトに関して、複数の球団、その親会社、それから、有力政治家、様々な大人たちの事情が絡んでいた。江川卓の一存ではどうすることもできない状況だった」
「ええ」
「江川卓はある意味、被害者です。大人たちはそれぞれの事情とプライドで動いていた。とはいえ、かの球団の暴挙は度を越していた、と僕は思います」
ドラフト会議は結局、その球団抜きの11球団で行われ、阪神が江川卓との交渉権を得た。しかし、一度入団を宣言したかの球団は彼を手放そうとせず、結局、当時のエース、小林繁との電撃トレードにより、江川卓は意中の球団に入団した。
「井口さん。その球団の体質は現在変化したと感じられますか?」
「いや。「選手の分際で」みたいな発言もありましたね。変化してない」
「井口さんは、関さんからの御紹介で私を御指名された」
「ええ。上手だと伺ったので」
「私は」
こりんさんは、彼女の名刺を僕の枕もとに置いた。
<新球団設立委員会理事長 小林真奈>
「こりんという名前は、本名と言えば本名です」
「え?」
「関さんは私共に賛同してくださり、今、委員会の理事をされてます」
「何の話ですか?」
「絶対に内緒です。実は、私のお客さん達とクラウドファンディング方式で、あそこを買収する計画を立ててます。理事の方は現在」
こりんさんは、次々に財界の大物たちの名前を挙げた。
「すごい」
「もう少しです」
「あ。お名前、小林さん、ですよね。もしかしてあの」
「はい」
「すごい」
「詳しいお話、させていただいていいですか?」
「是非」
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