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五、
元和二年に戦国の世を制し天下を手に入れた徳川家康が亡くなり、日光山に家康の廟が建設されることになった。
その際に奉行となって全体の指図をしたのが本多正純であったという縁もあり、江戸から日光に向かう際の要衝となるべき宇都宮の城主に、彼がなることが決まった。
もともとの城主は蒲生家昌であったのだが、彼の没後に跡を継いだ忠昌が十二歳という若さであったために古河に移らされ、代わりに正純が城主となった格好である。
日光に家康が祀られたことで宇都宮は将軍が日光社参をおこなうための宿泊施設となり、かつ、地域における商業発展のための重要な役どころを担うことを期待されたということもあり、わずか十二歳の忠昌には荷が重すぎると判断されたのであろう。
宇都宮の城主には領地をただ経営するだけでなく、宇都宮という町と各地に伸びる諸街道の大幅な整備が要求されていたことから、実務の経験が求められていたのが原因と考えられている。
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