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本多正純は、最初こそ幕府の中枢から遠ざけられたことに失望していたが、父である正信が関ヶ原の合戦後に、家康が本拠として定めた大江戸の町割りを関東総奉行として行ったときのやり方をつぶさに見ていたこともあり、江戸とは比較にならないとはいえ、城下町を作り上げるという事業に情熱を燃やし始めた。
まず、入府するとすぐに城下の町人町を下町、上町と町割りし、整然と短期間のうちに整備し、それまでは存在しなかった市街地を西側に構築する。
発展に伴う人口の増加を見越してのことだ。
さらに、日光街道をバイパスにするため、こちらも城の西側に設け、現在の川田入口から材木町を通って清住町につなぐこともした。
これによって、江戸から直接日光へ行ける街道ができあがったのである。
正純の計画では宇都宮城下全体の町割り、道路のつけかえなどの付近の整備事業が、楡木街道から佐野道路口としてつながる重要なものと位置づけられていたことから、速やかに終わらせたようである。
それが済んでから念願でもある宇都宮城の大増築を断行した。
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