又右衛門、斬ってはならぬ

3/279
前へ
/279ページ
次へ
二、   ――あの月は父上が亡くなられた時のものだ。  つい先日終わった父の法事の夜のことを、本多上野介正純は池に映し出された月を見ることで思い出す。  さっきまでの彼はそんなことさえも脳裏に浮かばなくなるほど、自分の思索に浸っていた。  水面に映っているのは、見覚えのある下弦の月。その隣に逆さまになった自分の姿がある。亡くなった父正信に似て痩せてはいるが、打ち立ての鋼のように引き締まった肉体の持ち主であった。  端整な顔つきに切れ長の目をもち、いかにも頭脳面においての切れ者という印象の通りに、正純自身は根っからの官吏だった。  武士でありながら、まともにいくさの場には出たことがない。  長い放浪暮らしの間の多くを、戦場で生き抜いてきた父と比べれば迫力で見劣りすることは十分に理解していた。  偉大な先達の存在による重圧を受けて苦しんだこともあったが、齢五十をこえればそれもどうということはなくなってくる。  今は父に関することにおいては、すでに虚心坦懐の域に達していた。
/279ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加