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彼の父である本多佐渡守正信の死は病いによるものではあったが、限りなく殉死であると正純は考えている。
主君徳川家康の死は元和二年四月十七日、正信の死は同年六月七日。たった二か月の差で後を追うように亡くなるなど、最初から企んでいなければ難しすぎる偶然だろう。
そして、命日になるたびに、正純はこっそりと深夜に庭にでるのが常であった。
「……来年は七回忌か」
不意に正純はつぶやいた。
尊属の三回忌と七回忌は基本的に盛大に執り行うのは、当時においても変わらない風習であった。
事実、家康を大権現として日光に祀っている幕府は、来年のこの時期に当代の将軍秀忠の日光参詣を予定している。
その往復の際に、正純が入府しているこの宇都宮城に宿泊するということが決まっていることもあり、元和五年に入封して以来、城では休むことなく増築工事が続いていた。
もともと幕府の中枢に勤めていた彼にとって、この大普請は大切ではあったが、やや退屈な仕事であった。
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