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僕がやります
「監督、これから誰がノックやるんすか」
キャプテンの牧野奨太が訊いてきた。未来はノックの意味がわからなかった。
「ノックって?」
「はあ、あんた野球部の監督でしょ。なんでノックもわかんないの」
「ごめんなさい。最初にも言ったけど野球のことは全く知らないの」
「そんなんで、よく野球部の監督引き受けたよね。引き受けたなら、予習くらいしてこいよな。俺たち生徒には授業の予習してくるように言うくせによ」
「ごめんなさい。今日の朝言われたばかりで、予習する時間もなかったの」
「なんで、引き受けんだよ」
「新米教師だから断れなくて」
「断れよな。迷惑すんのは俺たちなんだから」
「でも、引き受けた以上は一生懸命やらせてもらうわ。だから、ノックってどういうものか教えてくれる」
「守備練習だよ。三次監督がいた時は監督がノックバット握って守備につく俺たちにボールを打ってくれたんだよ。あんたはそれ出来ねえだろ。これから誰にしてもらうか決めねえと試合どころか練習も出来ねえわ」
「わたしもノックが出来るように練習するわ」
「野球をなめんなよ。そんなすぐに出来るわけねえだろ」
「ノックってそんなに難しいの」
「俺たちにとっちゃ難しくねえけど、あんたには難しいわ。今さら練習しても無理だな」
「でも、練習するわ。少しでもあなたたちの役に立ちたいから」
「ムリムリ、邪魔なだけだからやめてくれる。レギュラーじゃない一年と二年に頼むから」
「一年生と二年生で出来るの」
「三次が抜けてからしばらくは二年にやってもらってたからな。けど、これから夏に向けてずっとノックだけやらされる奴は守備練習ができねえわけだから文句言いたいだろうけど、まあ仕方ねえよ。これもあんたのせいだからな」
「みんなで順番にしたらいいんじゃないかしら」
「そんなことしたら、全員がぶちギレるわ。誰か一人を犠牲にするしかないわ。俺が誰にするか決めるから、そいつには監督から言ってくれな」
「わ、わかったわ。その子、ちょっとかわいそうな気もするけど」
「かわいそうなのは、俺たち野球部全員だ。特に三年は最悪だ。それって、あんたのせいだから、あんたがかわいそうなんてこと口にすんなよな。ムカつくからさ」
「ごめんなさい。みんな一生懸命なのに、邪魔することになっちゃって」
未来は頭を下げた。
「それからスターティングメンバーとかは誰が決めんの」
「スターティングメンバーって?」
「ハァー、面倒臭いな。最初に試合に出る選手だよ。試合が始まったら代打や代走や守備変更とかも考えなきゃいけないし、試合中のサインも出さなきゃいけない。監督がこんなんじゃどうしようもねえわ」
「それをわたしがやらなきゃいけないのね」
「だけど、ルールも知らねえのに出来るわけねえだろ」
「そうね、今から出来るだけ早くルールも覚えるわ」
「いいよ。絶対無理だし。これからは俺が決める。だから、監督は俺が決めたスターティングメンバーに文句言う奴がいたら、監督の権限でボコボコに殴り飛ばしてくれよ」
「そんなことしたら、教師やめさせられるわよ」
「いっそうのこと、やめさせられてほしいんだけど。まあ、それはいいわ。とりあえず、これからは俺が監督代行するから、あんたは黙って見ててくれ。トラブルが起こった時に責任とってくれるだけでいいから」
「トラブルって」
「そんなのわかんねえよ。俺が監督代行になったら文句言う奴も出てくるだろうから、トラブルになることもあるかもしんねえだろ」
「けど、出来るだけ同じチームなんだから仲良くやりましょうね」
「仲良くって遊びじゃねえし、それに俺が仲良くするつもりでも、向こうがどんな態度とってくるかわかんねえからな。レギュラーはずされて怒る奴もいるだろうしな。そん時はやるしかねえだろ」
牧野はボキボキと指を鳴らした、
「レギュラーってそんなに大事なことなの」
「当たり前だろ。試合に出れなかったら、野球部にいる意味ねえからな。だからみんな必死で練習してきたんだ。レギュラーになって甲子園に出て活躍するために俺たちは厳しい練習を毎日やってきたんだ。それなのに新米で断れないからっていうあまっちょろい理由で監督引き受けて野球部に入ってきてもらっちゃ困るんだよ」
「甲子園に出ることってそんなに大事なことなの」
「あんたにはわからねえよ」
「三次のせいで辞めた奴も多いし、一年の入部希望者は五人しかいねえし、最悪だ」
牧野は持っていたバットを叩きつけて、その場から去って行った。
牧野の怒る背中を見送った。これからどうしたらいいのか、未来には全く見当がつかない。
未来は「ハァー」と肩を落とした。
「監督、大変そうですね」
背中から声がして振り向くと、真っ黒に日焼けした丸坊主頭の男子が真っ白な歯を見せて近づいてきた。野球部の中では小柄な方だ。
「えっと、あなたは」
未来はユニフォームに書いてある名前を覗きこんだ。
「僕は川田です。新二年生です」
川田はユニフォームに書いた名前を未来に向けた。
未来はそれを覗きこんだ。
「川田君ね、覚えたわ」
「もし良ければ、ノックとか、僕がやりましょうか」
「そうしたら川田くんは守備練習が出来ないじゃないの。それでもいいの」
「僕はどうせ補欠だから、その方がみんなのためになりそうだし、監督もその方がいいでしょ」
「川田くんがやってくれるなら、それはありがたいんだけど」
「僕からキャプテンに言ってみます。キャプテンも誰に決めるか大変だと思うんで、僕から志願してみます」
「川田くん、ごめんなさいね。わたしのせいで守備の練習が出来なくなるわけよね」
「種田監督のせいじゃないです。三次監督のせいですよ。それから野球のルールを覚えるんだったら、僕の持ってる本を貸しますよ。小学生の頃に父さんから買ってもらったやつがありますから」
「お父さんから買ってもらった大切な本なのにいいの」
「いいですよ。今はほとんど見てないから。父さんもその方が喜んでくれると思います。父さんは僕が甲子園に出て活躍する姿を見るより、僕が他人からありがとうって言われてる姿が見たいって言ってましたから」
川田はニコリと白い歯を出した。
「川田くん、ありがとう。いいお父さんね。川田くんはお父さんが大好きなのね」
「でも、僕が甲子園で活躍する姿を父さんに見せたかったです」
「これから頑張ればいいじゃない。甲子園目指して頑張りましょうよ」
未来はニコリと笑みを浮かべ、胸の前で両拳を握った。
「そうですね。父さん天国からでも見てくれるかな」
川田が空を見上げた。
未来は言葉を失った。返す言葉が思い浮かばない。川田の目を見ると潤んでいた。
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