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 大学時代の仲間と共に製薬会社を起業し、新薬開発を成功させ一代で巨万の富を築いた伊藤 敬一郎(いとう けいいちろう)は、ゆっくりと肘掛け椅子から腰を浮かせ、寝床に就いた。  最近悪夢にうなされ、食欲がなく好きだったワインも飲めなくなった。  今夜は特に動悸(どうき)がひどくて、窓の外の景色を眺めて心を(しず)めようとしたが、なおさら落ち着かなくなるばかりだった。  左胸を軽く押さえながら、カーテンに手をかけた。 「今夜も、寝付けそうにないな」  眼窩(がんか)に濃い(くま)がはっきりと窓ガラスに写り、お化けの様だな、などと思ったが室内を振り返った瞬間、息が詰まった。  すぐ後ろに、20歳前後と思われる若い女が立っていたのだ。 「彩花(あやか) ───」  敬一郎はカーテンから下ろした左手を追いすがるように伸ばした。  5年前に死んだはずの娘はゆっくりと下がり、虚空を(つか)んだ手をさらに伸ばして歩を進めた。  そのさらに後ろに、もう一人若い女がいた。  薄い微笑と共に、敬一郎の恐怖に引き()った表情を楽しんでいるように見えた。  天井を仰ぐと、顔が隠れそうなほど長い髪の間から、目元の大きなホクロが覗く。  勝ち誇ったように見下ろす表情と共に、かすれた声で笑ったような気がした。  そして、ゆっくりと身体が透き通り、部屋の壁が現れたのだった。  全身がワナワナと震え、歯がかみ合わずガチガチと音を立てる。  髪を掻きむしりながらベッドへ滑り込むと、掛け布団を頭の上まで被って息を殺した。 「あんたは、心臓に難病を抱えた人たちを救う、画期的な新薬を開発したくせに、なかなか世に出そうとしなかった。  だから私の妹は ───」  掛け布団越しに冷たい手の感触が伝わり、ゆっくりと()がされていく。  (のど)にボールが詰まったように息ができなくなって、眼球が飛び出すほど目を()いた後、黒目がぐるりとひっくり返った。  意識が遠のきそうになったとき、突然喉の違和感が消えてゼイゼイと空気を肺の浅い部分に何度も吸い込み、喉を掻きむしっていた手をゆっくりと緩めた。  夢の中の出来事なのか、現実なのか、自分が生きているのかも分からなくなり、また布団に(くる)まって嗚咽(おえつ)()らして何時間も震えていたのだった。
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